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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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中外日報 より

上記文抜粋
・・・・・・・
法然上人と高野山 ― 空白の25~42歳に数年山籠か

浄土宗西山深草派宗学院助手 長谷川浩文氏

2017年1月27日付 中外日報(論)

はせがわ・ひろふみ氏=1963年、京都市生まれ。京都工芸繊維大大学院工芸科学研究科修了、博士(工学)。浄土宗西山深草派大善寺住職、同派宗学院助手。


一 これまでの研究経過
高野山奥院には、あまり知られていないが法然上人(1133~1212、以下敬称略)の御廟がある。さらに、法然の伝承も高野山には数々存在する。調査した結果、法然の高弟である聖光房弁長(1162~1238)が『念佛名義集』の中で、顕真法印(1131~92)・法然上人・明遍僧都(1142~1224)が高野山に「掻き籠った」と述べていることが明らかとなった。法然が高野山に籠ったことは間違いないであろう。

二 高野山に掻き籠った法然
『念佛名義集』に次のようにある。

念佛名義集
弁長は、1197(建久8)年から1204(元久元)年までの8年間、法然の膝下で過ごしているため、この間に法然から直接聞いたのであろう。法然年表を見ると、1157(保元2)年から1174(承安4)年(法然25~42歳)の18年間は、法然の事績は全くの空白である(『別冊太陽 法然』平凡社、2011)。法然はこの間の数年間、高野山に籠ったと考えられる。

弁長は、高野山のことを次のように述懐している(『法然上人行状絵図』巻四六)。

(前略)つねの述懐には、「人ごとに閑居の所をば、高野・粉河と申あへども、我身にはあか月のねざめのとこにしかずとぞおもふ」と。また安心起行の要は念死念仏にありとて、つねのことわざには、「出るいきいるいきをまたず、いるいき出るいきをまたず。たすけ給へ阿弥陀ほとけ、南無阿弥陀仏」とぞ申されける。(後略)

弁長も高野山へ山籠した経験から、このように述懐したのであろう。

『法然上人傳絵詞(琳阿本)』には、法然が東大寺で説法をする場面を次のように記す。

春乗坊唐より観経の曼荼羅ならびに、浄土の五祖の影をわたして東大寺の半作の軒のしたにて供養あるべしと風聞しければ、南都の三論法相の学侶数をつくしてあつまりけるに、二百餘人の大衆をのヽヽはだに腹巻をき、高座のわきになみゐて、自宗等をとひかけてこたえんに、紕繆あらば耻辱にあつべきよし僉議して相待たてまつるところに、上人すみぞめの衣に高野ひがさうちきて、いとこともなげなる體にて、かさうちぬぎて禮盤にのぼりて、やがて説法はじまりぬ。(後略)

法然が高野ひがさを身につけていたというのも、法然が高野山に籠ったことを示唆している。

三 清浄心院谷曼荼羅堂
次に、法然が籠った場所を特定した史料が残っている(『紀伊続風土記』)。

法然上人碑

長谷観音祠より数間。参路の左方。石清水の南岸にあり。一間四方。寶形造の小堂。東に向ふ。正面格子戸。三方板壁。堂内に石の五輪塔を安す。高さ五尺餘。古老傳に。碑上の梵書并源空の二字は法然の直筆なり。此上人昔時當山に千日籠り。清浄心院谷の曼荼羅堂に棲息し。毎日奥院に詣て給ふ。(割注 参籠のこと太平記にも見ゆ。)(後略)

法然の御廟を解説した部分であるが、古老傳とあるため代々伝承として伝わってきたことが窺える。この伝承は、『太平記』にも記されているようなのだが、現在までのところ見当たらない。

清浄心院谷にあった曼荼羅堂は現在跡形もないが、跡地を調査した結果、清浄心院谷は山肌を削って切り開かれた谷であった。結構急な参道であり、屋敷の建っていた場所は、段々畑のように平らに整地されていた。


谷を奥へ入るほど参道は急となり、曼荼羅堂が建っていたと思われる一番奥の整地された辺りは、最も急勾配な参道であった。江戸時代の古絵図の中には、曼荼羅堂のさらに奥に溜め池が描かれた古絵図があり、現在もこの溜め池は存在する。

高野山で曼荼羅と言えば、両界曼荼羅を意味するが、ここで言う曼荼羅は両界曼荼羅ではなく、浄土曼荼羅であることに注意が必要である。両界曼荼羅を祀るお堂は両界堂と呼ぶのに対し、浄土曼荼羅を祀るお堂は曼荼羅堂と呼んだようである。江戸時代後期になると、曼荼羅堂の本尊が浄土曼荼羅図であったため、曼荼羅堂は由緒と呼ばれるようになる。

曼荼羅堂には、遊行14代太空(1375~1439)によって九品堂という額が掲げられ、この額は清浄心院に現存している。この額の裏には、曼荼羅堂が阿曾宮神主友成(生没年不詳)によって建立されたと記されていて、友成とは先行研究によると延喜年間(901~923)に活躍した実在した人物である。この友成は、有名な世阿弥(1363~1443?)作の謡曲『高砂』のワキとして登場することも分かった。

『紀伊続風土記』によると、浄土宗西山深草派第2祖公空顕意道教(1239~1304)の著書『曼荼羅聞書』が、曼荼羅堂に存在した。鎌倉時代に活躍した顕意が、高野山の人々から浄土曼荼羅の第一人者として認識されていたことを物語っている。

四 覚鑁大伝法院建立
1130(大治5)年、高野山は大きな転換点を迎えた。覚鑁(1095~1144)が高野山内に鳥羽法皇(1103~56)御願寺として、伝法院を建立した。1132(長承元)年、伝法院は一間四面から三間四面に改造され大伝法院と呼ばれた。

さらに、八角一間四面の堂舎密厳院も建立され、この年鳥羽法皇3度目の御幸を迎えた。その2年後1134(長承3)年、覚鑁は921(延喜21)年以来、金剛峯寺座主職が東寺長者によって兼帯されていたのを強引に元通りの住山人に改めた。その結果、従来からある太郎寺と呼ばれる勢力と覚鑁率いる新しく高野山に誕生した勢力との間で、150年以上にも渡る内乱へと発展した。

1168(仁安3)年には、「追二撥傳法院僧徒七百餘人一。破二却坊舎二百餘宇一」(『高野興廃記』「伝法院建立事」)とあるように伝法院僧徒は七百余人、坊舎は二百余宇までに発展した。

覚鑁が大伝法院から東西を眺めた様子を「西近得二宝塔之本場一、常住僧徒草庵比レ檐、東遙受二禅林之奥院一、仙来梵侶柴戸連レ窓」(『根来要書』「覚鑁申状案」)と述べているのは、大伝法院がちょうど金剛峯寺方と伝法院方の境界に位置し、大伝法院の西側に金剛峯寺方の宝塔並びに常住僧徒の草庵が存在し、一方東側に伝法院方の仙来梵侶の柴戸が存在したのである。伝法院僧徒七百余人や坊舎二百余宇とは、仙来梵侶の柴戸を指している。

大伝法院より東側に位置した谷々は、浄土院谷・往生院谷・蓮花院谷と呼ばれ、念仏聖たちの活動空間であった。現在、清浄心院には鎌倉時代後期に成立したとされる浄土曼荼羅図と當麻曼荼羅縁起が共に所蔵されているため、曼荼羅堂の存在は鎌倉時代後期まで遡る。

一方、大治5年に覚鑁が高野山に伝法院を建立して以降、曼荼羅堂の本尊であった浄土曼荼羅図が成立した鎌倉時代後期に至るまでの間、高野山では金剛峯寺方と伝法院方の間で内乱が断続的に行われていた。

法然が隠遁したとされる曼荼羅堂は当時、貴族ら有力檀越に支えられた院家ではなかったと考えられるため、内乱期間に曼荼羅堂の建立は不可能であろう。法然在世時、曼荼羅堂は存在し、高野山の内乱以前からのものである可能性が高い。

法然と高野山の関係は、これだけにとどまらずまだまだ存在しており、高野山における法然研究はさらに展開されるであろう。今後の研究に注目していただければ幸いである。



・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり



高野山が「密教の山でなく、浄土信仰の山」という説もある。


高野山の密教が滅びたという説もあるが、それは無いと思うが。


だが、ほぼ「念仏・浄土教の山」になっていた。


江戸初期に、高野山の高野聖に出された幕府の布告では「時宗を辞めて、真言密教の灌頂を受けろ」と聖方の寺院に出された。
まあ、密教に戻るってのは、密教が残っていた証拠だが、大多数の「聖」の寺院の多くが、ほぼ時宗・念仏系ってのは、ほぼ「念仏の山だった」ことの証拠。


宗派や枠組みを、これまで通りにうけたまわるのは、どうも正しい判断ではないってこと。


お読みくださりありがとうございます。
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