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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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「論理を超える」とは何か

〇神秘主義者などは「論理を超えたもの」を強調する事が多いが、特定の宗教のドグマを盲信して思考を停止させるのは「論理の放棄」であり「論理を超えること」ではないであろう。こういうのは「不合理故に信ず」というキリスト教信仰と同じである。「論理を超える」など論理を突き詰めないとたどり着けないのではないか。

〇龍樹は論理を突き詰め、言葉を徹底的に分析し、言葉が描き出す固定化された概念の世界と、常に変化し縁起する現実の現象世界との乖離を暴き出した。言葉により固定化された概念の世界の虚構性を突き破り、「言葉の多様性」(プラパンチャ)の止滅した「戯論寂滅」の境地を示したのである。

〇しかしそれはあくまでも徹底的な論理的分析の末に辿り着いたものであり、論理を放棄し神秘主義や宗教的ドグマの世界に逃げ込む事とは対極なのである。龍樹が論理性を極限まで突き詰めた果てに見出したありのままの現実の縁起の世界である。龍樹を神秘主義者とする学者もいるが間違っていると思う。

〇印度は論理学が発達している。ニヤーヤ学派が確立した印度論理学の論証式は「提案・理由・喩例・適用・結論」の五支の形式を満たすことを必須とするそうだ。これは仏教論理学を確立した陳那により「宗・因・喩」の三支に簡略化された。印度の論理学は例示を論証式の必須事項とするのが特徴的だと思った。具体的思考を重んじている。

〇陳那は確実な認識手段として現量(知覚)と比量(推理)を認めた。知覚と推理のみを認識手段として認めるというのは大変合理的である。仏教は元々科学的なところがある。陳那は「聖教量」という仏が説いた経典を確実な認識手段としていない。経典に書いてあるから正しいという考えを取らないのだ。


(了)


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抜粋終わり


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