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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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中外日報 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・

単線的進歩史観を批判 信教の自由を再検討
2016年9月23日 17時33分

日本宗教学会の学術大会(東京・早稲田大)で11日、「信教の自由」の原則を問い直すパネルが開かれた。近年新たな展開を見せる最前線の研究を踏まえ、プロテスタンティズムや西洋近代リベラリズムの歴史の中で理解されてきた普遍的人権としての「信教の自由」理念について再検討を促す発表が続いた。

フランスにおけるライシテ(世俗主義、政教分離)とブルカ(ムスリム女性のベール)等の禁止、日本における首相・閣僚の靖国神社公式参拝など、「信教の自由」を脅かすとみられる事例は多い。その一方で、学界では信教の自由の理念についての定説を検証する作業も進んでいる。

この「『信教の自由』のパラドクス―単線的進歩史観を越えて」と題したパネルでは、代表者の藤原聖子氏(東京大)が「普遍性・規範性への疑義」という刺激的なサブタイトルで「信教の自由」原則をめぐる研究動向を概観した。

藤原氏は、ピューリタンを先駆者として啓蒙主義の歴史の中で、「信教の自由」と近代的な政教分離が確立され、それが非西洋社会にも広められたというこれまでの一般的理解を「単線的進歩史観」として整理。様々な国や地域で、それぞれの歴史的文脈、政治的背景のもと「信教の自由」が導入された事実の検証が進められていることを報告した。

また「信教の自由」の根底にある宗教観は特殊西欧的なものであり、非西洋社会に受け入れさせたのは帝国主義的拡張の一環であったと批判し、自明とみられてきた「信教の自由」という価値の普遍性・中立性を相対化させる研究などを紹介。

藤原氏は、こうした「信教の自由」の非・普遍的側面の認識を踏まえ、アメリカの政教分離の矛盾(宗教・非宗教を司法が判断する等)、イギリスの公教育における宗教教育の在り方(多文化主義から社会統合のための市民性教育への移行)などを理解する視点を提示した。


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・・・・・・・・・
抜粋終わり


信教の自由など、江戸以前からほぼ日本にあった。

耶蘇が禁じられたのは、そもそも耶蘇が「他の宗教を許さない」宗教であるから、日本の宗教との共存が不可能だったからだ。

日本に問題はなく、狂気の耶蘇こそが、問題であったのだ。


「公的なものに、宗教を際立たせない」ってのが、もともと日本の有りよう・・・

明治になり、耶蘇の毒が入り、狂い始めた・・・・。


まあ日本も耶蘇以外のムスリムやヒンズーや道教とかの共存を考えると、それなりにマイナーチェンジするところもあるのを忘れてはいけない。


お読みくださりありがとうございます。


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