故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/siso_toyosiso_yomeigaku_rireki.htm
上記文抜粋
・・・・・・・・
【「竜場の一悟」】
そんなある日、三人の従者が生活の労苦から病に倒れる。王陽明は自ら世話をしてやり、心が塞がれてしまうことを心配して歌や詩を歌い、滑稽な話をして慰めた。その時、そして、王陽明は自分自身が生死の憂いを忘れて愉快な気分となっていることに気付き、もし聖人がこの場いたらどのように過ごすであろう、自分と同じ様なことをしたはずだ。ならばまさに自分は聖人と同じ行いをしているのだ、とふと考えた。
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
光武帝と建武二十八宿将伝 より
上記文抜粋
・・・・・・・・
夢
劉秀は悪く言えば主体性がなく、周囲の期待を吸い上げて生きてきた。劉秀の生涯からは、彼自身の意志や願望がほとんど見えない。
劉秀はいったい何を望み、何を夢見て生きたのか。
劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
>王陽明は自ら世話をしてやり、心が塞がれてしまうことを心配して歌や詩を歌い、滑稽な話をして慰めた。その時、そして、王陽明は自分自身が生死の憂いを忘れて愉快な気分となっていることに気付き、もし聖人がこの場いたらどのように過ごすであろう、自分と同じ様なことをしたはずだ。ならばまさに自分は聖人と同じ行いをしているのだ、とふと考えた。
>劉秀はいったい何を望み、何を夢見て生きたのか。
劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
聖賢と聖帝は、同じことを歓び、是とする。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
・・・・・・・・
【「竜場の一悟」】
そんなある日、三人の従者が生活の労苦から病に倒れる。王陽明は自ら世話をしてやり、心が塞がれてしまうことを心配して歌や詩を歌い、滑稽な話をして慰めた。その時、そして、王陽明は自分自身が生死の憂いを忘れて愉快な気分となっていることに気付き、もし聖人がこの場いたらどのように過ごすであろう、自分と同じ様なことをしたはずだ。ならばまさに自分は聖人と同じ行いをしているのだ、とふと考えた。
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
光武帝と建武二十八宿将伝 より
上記文抜粋
・・・・・・・・
夢
劉秀は悪く言えば主体性がなく、周囲の期待を吸い上げて生きてきた。劉秀の生涯からは、彼自身の意志や願望がほとんど見えない。
劉秀はいったい何を望み、何を夢見て生きたのか。
劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
>王陽明は自ら世話をしてやり、心が塞がれてしまうことを心配して歌や詩を歌い、滑稽な話をして慰めた。その時、そして、王陽明は自分自身が生死の憂いを忘れて愉快な気分となっていることに気付き、もし聖人がこの場いたらどのように過ごすであろう、自分と同じ様なことをしたはずだ。ならばまさに自分は聖人と同じ行いをしているのだ、とふと考えた。
>劉秀はいったい何を望み、何を夢見て生きたのか。
劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
聖賢と聖帝は、同じことを歓び、是とする。
お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment