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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
戦闘教師「ケン」 激闘永田町編 より

上記文抜粋
・・・・・・・

コバちゃんを独裁者と呼ばないで
先の記事で「今どきスターリンを『独裁者』などと書いてしまっているのは、ソ連学徒として噴飯もの」と書いたところ、「なぜスターリンを独裁者と言ってはいけないのか」旨の問い合わせがあったので、ここに記しておく。

まず大前提として、特定の個人を「独裁者」などと呼ぶのはただのレッテル貼りに過ぎず、論者の主観の問題であって、客観的な議論を否定する話にしかならない。例えば、安倍晋三氏を「独裁者」と呼ぶことは、論者の主観的には「正しい」かもしれないが、そこには客観的な議論は存在せず、むしろ議論を否定して「安倍は独裁者である」という認識を強要する意図が感じられる。同時に、そこには「独裁者か否か」の中立的な検討が存在せず、論者が前提条件無しに決めつけてしまっている。
こう言うと「安倍については独裁者かどうか議論があるかもしれないが、スターリンは独裁者で良いだろう」との反論がありそうだ。そこで、少し迂遠ながら自国の例で考えたい。

日本史において「独裁者」と呼ぶに値する指導者に晩年の豊臣秀吉がいる。晩年の秀吉は、周囲の慎重意見や反対意見を排して朝鮮出兵を強行、諫言する者を粛清している。豊臣秀次事件の陰惨さは、まさに一般にイメージされる独裁者そのものだろう。だが、秀吉は最初から独裁的だったわけではなく、むしろ独裁から最も遠いところにいた。若年から壮年に至る秀吉は、とにかく聞き上手で、人の間に入って交渉、裁定するのを得意とした。秀吉が天下人になれたのは、様々な要因があるものの、個性として自己肥大の塊のような戦国諸将をなだめすかし、褒め殺しながら、利害調整する手腕に長けていたことが大きい。つまり、「多数の意見を反映させつつ過半の合意を得る」という民主的傾向が強かったのであって、秀吉個人が超人的な能力をもって暴力的に他者を支配下に置いたわけではない。秀吉が、パラノイア、独裁的傾向を示すのは、小田原征討以降のことだった。
「豊臣秀吉は独裁者だった」と言ってしまうと、晩年については妥当性が認められるとしても、壮年に至る大半のキャリアを否定することになってしまい、妥当性や中立性の点で大いに疑問が生じる。「独裁者」はやはりレッテル貼りでしかない。

なお、戦国期の戦国大名は、今日流布されているイメージと異なり、「地域豪族の取りまとめ役」でしかなく、殆どの場合、自分の意志を通すことすら難しかった。武田信玄が「名君」とされたのは、文字通り朝から晩まで国衆の話に耳を傾け、合意を得ることに長けていたためであり、故に松平元康も領主の範とした。上杉謙信などは、豪族たちのアクの強さに嫌気をさして、何度も出奔したり、引き籠もりしたりしている。

スターリンを論じる前に、ソ連邦における国家意思の形成過程の一例を挙げておきたい。一般的には、全体主義国家の意思決定は独裁的に決せられると考えられている。だが、本ブログでいくつか検証してきた通り、その意思決定は共産党書記長が独裁的に決するものではなかった。詳細は記事を読んで欲しい。

・ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程 
・「プラハの春」-ソ連の対応と誤算 
・ソ連は何故ポーランドに軍事介入しなかったのか 

ブレジネフの例を挙げると、「プラハの春」の前にプラハ入りした際、滞在した48時間のうち40時間を、チェコスロヴァキア共産党の幹部、関係者数十人との面会・ヒアリングに充てているが、とうてい「独裁者」のイメージでは無い。
アフガニスタン介入やポーランド危機と同時期のフォークランド紛争を見た場合、当時のサッチャー英首相は、大多数を占めていた慎重、反対意見を頭から否定して、自らの信念だけで相当強引に開戦に持ち込んでいる。意思決定過程を見る限り、ブレジネフよりもサッチャーの方がはるかに独裁的なのだが、サッチャーを独裁者とする記述は、少なくとも今日ではお目に掛からない。

「肝心のスターリンは?」と言うと、実はこれも同じで、スターリンが独裁的地位を確立するのは対独戦に勝利する前後のことであり、それは「大祖国戦争を勝利に導いた」神話に基づいている。スターリンは1953年に死ぬが、独裁権を振るったのはやはり10年に満たない期間でしか無かった。大粛清の終了をもって「独裁権確立」と判断しても15年に満たない。

そもそもスターリンが、レーニン死後のボリシェビキの後継者レースに勝利したのは、「独裁的じゃ無いから」だった。レーニンの死の前後、オールド・ボリシェビキたちはレーニンの指導力に敬意を表しつつも、その独断的傾向や人の話に耳を貸さないスタンスに嫌気をさしていた。レーニンは、遺書でスターリンを「粗暴」「独裁的」と非難するわけだが、そのスターリンを書記長に就けたのはレーニン自身だった。その理由の1つは、トロツキーではボリシェビキをまとめられず、スターリンなら可能(実務能力が高く面倒見が良い)という判断だったと推察される。能力という点では、トロツキーはダントツだったが、いかんせん自分の能力をひけらかし、他者を見下す傾向があり、特に党内の幹部級から嫌われていた。これに対し、スターリンはとにかく人の話に耳を傾け、容易に自説を主張せず、「仲間」と見込んだ者は必ず守る「男気」があると評価されていた。レーニンはどこかの時点でスターリンの本質を悟ったのだろうが、党内の評価は全く別だった。
スターリンの意思決定は、常に慎重で周囲の意見を丹念に聞き出し、その上で多数派を見出して同意するというものだった。それ故にレーニンやトロツキーらからは蔑視されていたわけだが、人事の妙と相まって、常に多数派を形成していた。

スターリンはレーニンの遺書を封印して党内権力を握るが、その座は不安定で内外に多くの敵を抱えていた。そこで、政敵の排除を始めるが、粛清を進めれば進めるほど、疑心暗鬼が強まっていってしまう。さらに無理な農業集団化や重工業化が祟って、国内の不満が高まり、国際情勢的にも不穏となる中で、「政治統制を急ぐ必要がある」として大粛清が始まる。
直接的な原因は、大衆的人気の高かったセルゲイ・キーロフが暗殺されたことにあり、定説は、スターリンが自らの地位を脅かすキーロフを暗殺し、これを切っ掛けに大粛清を始めたとしている。だが、現実にはスターリンがキーロフ暗殺を指示したという証拠も傍証もなく、むしろキーロフ暗殺の知らせを聞いたスターリンが、周囲も驚くほど狼狽し、放心していたことが確認されている。一般的には、大粛清は「スターリンの妄想に始まった」と理解されているが、スターリン個人が周囲の反対を押し切って粛清を強行したことを示す資料はなく、むしろ周囲の人間が「内なる脅威」を煽り立てた節があるくらいだ。

大粛清の過程で「内なる敵」を徹底的に排除したことで、スターリンの独裁的権力が確立したと考えるのは、おおむね妥当かもしれない。だが、例えば、1941年6月22日、スターリンの予想に反してナチス・ドイツがソ連への侵攻を開始した際、スターリンは呆然自失となり、後事をモロトフに託して別荘に引きこもってしまう。この時スターリンは、完全に自分が粛清されるものとして身辺整理していたのだが、案に反してやって来たのは、「どうか戦争指導を引き受けてください」という党幹部の嘆願だった。
ジューコフは、大戦当時のスターリンについて、「すべての重要な決定にはスターリンの決裁が必要だった」と述べると同時に「われわれのような専門家の意見を率直に聞く耳を持っていた」と評価している。
また、モロトフは一般労働者並みの年金で生活していた晩年にインタビューを受けているが、「レーニンとスターリンと、どちらの方が恐ろしかったか」との問いに対し、「スターリン?ふん、あんなのはレーニンに比べれば羊も同然だ」と応じている。同時代にあったものの印象としては、レーニンの方がはるかに「恐ろしい独裁者」だったのだ。

今日にあっても、西側では「独裁者」と言われるプーチン氏だが、氏をよく知るものたちは皆、「プーチン氏ほどよく人の話を聞く人はいない」と口を揃えて言うという。
先に「独裁者」とレッテルを貼って見てしまうと、無数の視点を見落としてしまうだろう。少なくとも中立性、客観性、学術性を重視するならば、相応の理由や必要性無くして「独裁者」などの言葉は使うべきでは無いのである。


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・・・・・・
抜粋終わり

>今日にあっても、西側では「独裁者」と言われるプーチン氏だが、氏をよく知るものたちは皆、「プーチン氏ほどよく人の話を聞く人はいない」と口を揃えて言うという。
先に「独裁者」とレッテルを貼って見てしまうと、無数の視点を見落としてしまうだろう。

然り。

民主的に出てきた指導者が、聴く耳をもたないことはよくある。

日本などそれの塊だろう。「上のいうことに従順に」て学校・幼稚園から叩き込まれる。

安倍晋三とか日本会議とか神社本庁のほうが、独裁的組織ですは。

神社本庁では、神職の研修に「上のいうことは絶対」と政治信条まで洗脳するからな。


て密教系もやばいところあるけどな・・。て天台宗は日本会議の仲間だった。





て、土地検地をする時の光武帝も独裁者だったかもね。

参考

上記文抜粋
・・・・・
万人の意志を尊重する皇帝

 あるいは税金を減らすように求めた郷里の老人の態度も興味深い。

 建武十九年(西暦43年)九月、劉秀は父の劉欽が県令を勤めた南頓県に行き宴会を開き、税を一年免除した。すると南頓の長老たちは昔話を始めて、ここは陛下ゆかりの地ですから、税を十年免除して欲しいという。
 劉秀はこれに対して驚き、さらに深刻な顔で、
「天下の重大さにいつも自分では不足ではないかと恐れて一日一日努めているのに、遙かに十年などどうしてできよう」
 といった。これを見た長老たちはすぐに劉秀のわざとらしい演技を見破り、
「陛下は実は惜しんでいるだけでしょう。何を謙遜ぶっているのですか」
 とつっこんだのである。これを聞いた劉秀は大笑いして、一年プラスすることにしたのである。
 「一年でどうじゃ」「十年ください」「じゃ二年にしよう」と、まるで市場の値切り交渉のような愉快な会話であるが、ここにも劉秀が相手を対等に見てボケて見せたことがわかる。

 まだ蕭王だった頃、老人に諫められたことがある。鄧禹を赤眉討伐への遠征に派遣したとき、その見送りの帰りに息抜きのつもりか狩猟をした。すると森で小鳥を捕っている二人の老人に出会う。おそらく鳴き声の美しい鳥を捕まえて飼おうと考えているのだ。劉秀は聞いた。
「鳥はどっちに行ったかな」
 老人は手を挙げて西を指し、
「この森の中には虎がたくさんいます。人が鳥を捕らえると虎も人を捕らえます。大王は行ってはなりません」
 と言う。劉秀は答えた。
「一通り装備もある、虎ぐらいどうして恐れよう」
 これを聞いた老人は色を変えて言う。
「大王の考えは何と間違っていることでしょう。むかし湯王は鳴條で桀王を捕らえましたが、桀には亳に大きな城がありました。武王も牧野で紂王を捕らえましたが、紂王にも郟鄏に大きな城がありました。この二人の王は備えがしっかりしていなかったのではありません。人を捕らえようとすれば人も捕らえるのです。備えがあるからと行って、おろそかにしてよいものでしょうか」
 劉秀はその考えを悟り、振り返って側近に言った。
「二人は隠者だな」
 二人を用いようとしたが、辞して去り、どこへ言ったかわからない。

 皇帝となるとたくさんの人材が必要であるから、賢者と聞けば朝廷から使者を送って仕えるように連絡する。

 太原の周党は評判高い賢者であり、劉秀は人を使わして朝廷へと招聘した。ところが周党は朝廷まで来たものの劉秀の面前で自らの志を述べ、仕官を断ったのである。劉秀の面子は丸つぶれであるし、側にいた大臣も不敬であると大いに怒ったが、劉秀は、

「いにしえより聖王には、伯夷、叔斉のような家臣にならない者がいるものだ。太原の周党が私に仕えないのも志というもの。帛四十匹(帛は絹であり当時の現物貨幣)を賜うことにしよう」

 と詔して、周党を郷里へと帰してしまったのである。
 劉秀が万人を平等に対することは大衆にも広く知られていた。


・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり



こういう光武帝が、



参考

上記文抜粋
・・・・・・

 この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
 他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
 欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
 これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。


・・・・中略・・・・・


韓歆の自殺問題

 この土地調査の経緯を理解すると、劉秀の治世の失敗の一つとされる、韓歆を自殺に追い込んだ事件の謎を解くことができる。
 韓歆は建武十三年(西暦37年)に大司徒となったが、その諫言があまりに激しく劉秀が怒ってしまい、建武十五年(西暦39年)一月、韓歆を罷免して帰郷させ、さらに問責までしたために、韓歆とその子は自殺してしまったという事件である。諫言だけで死に追いやったのは不当であるとして評判が悪い。
 司馬光は『資治通鑑』で、劉秀ほど寛容な君主ですら許容できなかったのは残念なことだと述べており、釈然としていないようである。
 史書には、劉秀が隗囂、公孫述と文書でやりとりしていたことを韓歆が非難したこと、今年は凶作となりましょうと、天を指し地を線を描き、激烈に諫言したことが記載されるが、なぜこれで劉秀が怒るのかかなり理解に苦しむ内容になっている。
 だがこれは土地調査と関連していたと考えると謎を解くことができる。
 土地調査では、南陽の豪族の大土地所有のごまかしが問題になったが、韓歆こそはまさに南陽の大豪族であり大土地所有者であるのだ。しかも韓歆の問責に強く反対した人物に鮑永がいるが、鮑永も土地調査のとき虚偽報告により罪を問われている。
 そして決定的なのはこの事件が建武十五年(西暦39年)一月のことだということ。「今年は凶作となりましょう」の今年とは、まさに土地調査の年のことなのだ。
 土地調査のような大事業を突然思いついて行動するはずもなく、数年前から練って協議していたはずである。


・・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり


これだからね・・・


「奴隷解放」は、「独裁」で行われた・・てこともあるかもね・・・。



お読みくださりありがとうございます。

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