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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
みずがめ座時代 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
お彼岸

色々な人生観があると思いますが、どんな人生観を持つかによって、苦しい人生とも意味深い人生にも。

人は何を行ったかによって決まる面もありますが、何をどのように考え捉えてきたかが、実はより決定的なのです。

何をどのように考え、捉えてきたかで、結局は行動が決まってしまうからです。

考えてもない行動を私たちは決して起こしません。行きたくない場所に、何があっても絶対に行かないと思ったら、義務でない限り、そこには行かないものです。

私たちは自分の考えや感じ方の通りに大体は生きているからです。その際に重要なのは、日頃何を、どのように考え捉えているか、、、ということになります。

そこに大きな分け方があります。本日はお彼岸。彼岸とは、向こう岸、、、すなわちあちらの世と現世とが接近する日。

冬至、夏至、春分、秋分、、、年にそうした日が四回あり、人は昔から特別な日としてお祝いしてきました。
そのうち、春分と秋分が彼岸となります。

彼岸とは、悲願でもあると思います。人間の悲願として人生の意味を知ることは大きいはずです。

生きている人と死んでいる人との境が彼岸であるとするなら、お彼岸の日はその垣根が無くなる日でもあり、現世に生きている人は、死んでいる人と、常に一体を今なを生きている、、

そう思う人生観と、死んだら仕舞い、、、と思う人生観では大きな違いがあります。

死んでいる人とどこかで一緒に生きている、、、という考えがなければ、墓参りの意味も違ってくることでしょう。

死んだ人について考える人がいなくなれば、自然と無縁仏が多くなります。

実際、東京の古くからあるお墓には、参る人とていない無縁仏が多くなっているようです。

死んでいる人と共に現世を生きているという考えにおいても、墓に死んだ人が今もいるわけではないでしょうが、思いでの記念碑としての墓の大きさは、変わらずにあると思います。

墓を忘れるということは、私たちが死んでいる人達の総勢の思いの先端におり、自分を見守っている幾多の先人とのコミュニケーションを忘れることでもあります。

多くの宗教団体が、墓や先祖を重視するのも、そうした理由があってのことなのかもしれません。

宗教は別にしても、意識が普遍で生き通しなら、死んだ人は死んでなく、今も意識体として生き続けていることになります。

ご先祖様の多くは、個の意識からさらに大きなものと一体になったにせよ、意識体は決して死んでいません。

そう考える人生と、この世限り、、死んだらお仕舞い、、、という人生には、違いが出てくる、、、ということです。

原発の問題も戦争の問題も、原点にこうした考えの違いがあるのかもしれません。

民族はおおむね、自然な死生観をもっています。どの民族も大体は先祖を大切にし、今なをそれらの魂は生きていると考えます。これはどの民族にも共通しています。

しかし、近代国家という便宜によって作られた時代は、私たちの時代も含めて、死んだら仕舞い、、、の考えを当たり前のように印象付け、魂を奪うことで成立している業がそこにあります。

近代国家の成り立ちの根本には、人の魂を奪いとることで重要なものを忘れさせ、支配しやすい人間を作り上げる政策の基本があったと思います。

もちろん、すぐに死生観を変えることもできないでしょうから、時間をかけて徐々に真実のコピー化を行い、あたかもコピーが本物であるかのように思わせる文明が行きわたったのです。

どこに行っても同じ景色、、同じやり方、、、同じ物、、同じ人生、、、、

魂の感動がなくなった、それに代わるコピーとしての感動は、スポーツでの感動や夢の実現、、という代案に切り替わっていきました。

ことに夢の実現という切り札は効果的で、形の上だけの貧しさと、今の充実は目的にさせない生き方を当たり前のようにしてくれました。

少年にとって野球選手になる夢はもちろん大切ですが、一人の夢の実現の下に、一体何人の少年たちの挫折があるのでしょう。

そんなことではなく、野球に触れた人すべてが幸福であると思う、そういうシステムにしていく方がベターです。

強い者、、、優れた者、、、持っている者、、、有名な者、、、それらへの価値が大きくなりすぎており、人間としての共通の喜びや当たり前のやさしさなどが、犠牲にされてきました。

そうした諸々の現象の原因の大本に、死んだらお仕舞いか、彼岸への思いがあるか、、、があるように感じられるのです。

私たちは大昔からの血縁など、死者総勢の先端を生きています。すべての先祖の思いの先端にいる、あらゆる先祖の思いを集約したところの、死者総勢からの期待を一身に集めている存在なのです。

先祖の中には、金持ちも有名だった人もおそらくいたと思います。何百代もさかのぼれば、先祖の数は半端ではありませんから、きっとそういう人もいたはずです。

権力を持っていた人もいたことでしょう。となると、総勢の思いの中に、そんな具体的な金持ちになれとか、有名になれというような期待が果たしてあるでしょうか。

私は無いと思うのです。そんなことではなく、お前には、お前にしか表現できないものがある、、、それを惜しみなく使え、、楽しめ、、、という以外にないと思います。

金持ちの先祖も、有名だった先祖も、すでに死んだのです。死んだ後にそれが誇りとして残っているとは思えません。

しかし、遺伝子の中に確実に、喜んだ人生、、、ご先祖らしく生きた人生は、特別なものとして記憶されていると思います。

そうした深く魂に残る体験や記憶しか、遺伝子を書き換えることなどできないと思うからです。

遺伝子の残る記憶とは、すなわち、自己実現した喜びの記憶以外にないということです。

全ご先祖の期待を一身に受けてこの世を生きている私たち、、、そのあと押しへの思いは、お前はお前らしく生きなさい、、、ということに他ならない。

ホロスコープにはその人の本当にいろいろな面があらわれ、同じ人は一人としていません。

しかし、そのホロスコープを読み解いても、当たっていない人がいる、、、それはホロスコープに表されている表現への期待に関心を持たず、どこかの人間や社会が考えたルール以外に関心が無い人に多いのです。

要するに自分を生きてない、、、金がないと将来の老後が不安とか、一応の大学を出ておかないととか、、、形にこだわっている。

星が期待しているもの、、、先祖が期待しているもの、、、それは形では決してないのです。

表現です。新しい表現なのです。その人にしかできない、、、一言でいえば、その人の、その人の人生の芸術化以外にないのです。死者の世界からの要望は。ただ個性的に生きなさい、、、ということです。

それによって、死者の世界が沸き立つのです。喜びに沸き立つのです。するとあちらの世で起きたことは必ずこちらの世でも起こるので、あなたの元に大きな喜びが戻ってくる。

私たちは生きている人間だけを怖がり、それに合わせようとして、四苦八苦している。そのうち、段々と回りのことばかり考えて自分を持とうとしないから、魅力が無くなっていく。

金を得て魅力を失う、、権力を得て魅力を失う、、、人望を得て家族からは嫌われる、、、良い人だと言われて本当は悪い人になっていく、、、

そうしたことが起きてしまうのです。先頭に立って、自分を表現する、、、それによって死者が沸き立つ、、、その応援なくして、人は幸福になどなれない、、、ということを、どんな民族も本当は死っていたのです。

そしてそうした事実を本当は知ったもののそれができない一部の人たちが、人類の魂を人質にとって近代化が進んできた、、、そう考えると、歴史がわかりやすくなります。

大不況が起こる、、、戦争が起こる、、、原発が爆発する、、、そうした不幸がなぜ起こるかの根本の原因がわかってきます。

それらに対抗するのは、個の芸術化以外にないのです。

芸術化というと大げさですが、要はご先祖集団が喜ぶ生き方をするかどうか、、、、形ではないのです。あなたにしかない個性が、今の自分の顔、体と同様に形の上でもある。なのに、私たちは、さらに個性化がある心や生き方にそれを応用しない。

顔や体が違う、、、それ以上違う魂や心をベースに人生を生きようとしない。

どんな不幸も、どんな限界も、どんなショックも、すべて自分の個性化の、芸術化の味付けになるというのに、形にこだわる私たちは、金がない、、人気がない、、家柄が悪い、、というような、形に限界を感じ、形だけにこだわる人生に変えてしまう。

あなたにあるあらゆる不幸的な要素、、、それさえなくなれば幸福になれる、、、という迷信と誤解を今すぐ捨て、それらの一見不幸に見える事柄は、味わいとなる個性化に欠かせない、、、という観点から自分を見れば、誰もが、実は芸術家であり、人生の目的そのものが、自身と自身の人生の芸術化にある、、、となることでしょう。この世に不幸などないのです。

本日の彼岸、、、彼岸にこそ、あちらの世とこちらの自分との接点において、自身の存在のありようを、芸術化を誓うことで、喜びの日にしたいと思います。



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・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


メメントモリと近い「先祖崇拝」。

あとまあ、

晏子春秋 より

上記文抜粋
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景公牛山に登り、国を去って死せんことを悲しむ、晏子諌む【第十七】

景公は牛山に遊覧して、北方にその国城を臨み見て、涙を流して

「どうしようもない、この広大な国を棄てて死んでしまうのを」

と言った。 艾孔と梁丘拠はこれに従って泣いた。晏子はひとりかたわらで笑っていた。
公は涙をぬぐって晏子を見て

「寡人の今日の遊は悲しい。孔と拠は寡人に従って涙を流したのに、子がひとり笑うのはどうしてか」

と言った。

晏子は答えて

「賢者を登用して久しくこれを守らせるとすれば、 すなわち太公や桓公が久しくこれを守りましょう。 勇者を登用して久しくこれを守らせるとすれば、すなわち霊公、荘公が久しくこれを守りましょう。 歴代の君がこれを守ろうとすれば、いったいわが君はどの地位でそれをなされますか。
代わる代わる君位は継承されて、君に至ったのです。それなのに、自分ひとりが永久に国を保有しようとなさるのは、後世にとって無慈悲であります。
無慈悲の君をひとり、へつらいの臣をふたり見ましたので、わたくしは笑ったのです」

と言った。


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抜粋終わり

同じく 晏子春秋 より

上記文抜粋
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景公公阜に遊び、一日に三過言あり、晏子諌む【第十八】

景公は外出して公阜で遊覧し、北面して斉国を臨み見て

「ああ、古より死がなかったならいいのになあ」

と言った。

晏子は

「昔、上帝は人の死を善いこととしました。なぜなら仁者はそれを休息と受け取り、不仁者は屈服と受け取ります。もし古より死がなければ、 太公、丁公が斉を保有して、桓公、 襄公、文公、武公が宰相となるでしょう。
君は笠をかぶり、賤者の服を着て、くわとすきで田の中で農事に従事されるでしょう。死を悲しむひまがありましょうか」

と言った。

公は怒り、顔色を変えて喜ばなかった。


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抜粋終わり



お読みくださりありがとうございます。
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