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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
密門会HP より

上記文抜粋
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二 而 不 二


みなさんが真言念誦する時、 目の前のご本尊様に対して手を合わせるから、 祈る自分と祈られる仏は、 別々の二つの存在のように感じるのではなかろうか。

 仏教以外の宗教の場合は神と人間は別個だから問題ない。 特に一神教は、 神は霊的存在として実在するのだという大前提がある。 先ずこれを信じることから始まる。 神は天地を創造し、 森羅万象を造った。 人間もその造られたものの一つに過ぎない。 故に神と人間は別の存在である。

 では、 仏教でいう仏と人間の関係とはどういうものだろうか、 一言でいうと不可分の関係にある。

 仏は仏陀の略で、 迷いから目覚めた聖者を意味する。 人間以外に別個に存在する霊的存在ではない。 仏は真実の法 (道理) を悟り、 われら衆生を救わんとする覚体で、 もともと姿かたちのあるものではない。 無相である。 それでは我々衆生にはわからない。 方便として具体的に人間の姿を取り、 人間の言葉で真実の道理を説いた。 歴史上の人物としては釈尊が最初の仏陀である。

 釈尊が出現し、 無始以来続いている真実の法というものを発見された。 覚った人を仏陀と呼び、 迷えるものを凡夫と呼ぶ。 同じ人間が、 迷っているときは凡夫と言われ、 悟ると聖者、 仏陀と言われる。 主体は同じ人間である。 仏は自分と対立して存在するものではなく自分自身の本性を覚った時、 仏と言われるのである。 自分が悟る前と、 覚ってからの自分と別人になるわけではない。 自覚によって一人の人間の心が大きく変化する。 その意味では、 別人のようになると言われるかもしれないが、 心の本体は同じである。

 仏がわからない時は、 あたかも自分の前に存在するがごとく感じられるかもしれないが、 本当は心の世界では、 仏と我は不可分の関係にある。

 密教では、 この世のありようは地大・水大・火大・風大・空大・識大の六大によって成り立っていると説く。 前五大の地・水・火・風・空はどちらかといえば形あるもの、 感覚でわかるもの、 最後の識大が心である。 仏も凡夫も六大によって成り立っている。 心が迷っているからといって仏と関係がないわけではない。 仏は心の本質、 不生の心を覚っている。 その心はわれわれの心にも流れている。 われら凡夫は三毒の煩悩により、 不生の心を自覚していないが、 一切衆生の中に遍満している心である。

 仏とは何かと問われれば、 さまざまな表現がある。 根本仏教や羅漢中心の教団では、 仏に成るとは、 釈尊のように煩悩を一つ一つ断じて、 完全な涅槃に入ることを言うが、 多くの羅漢たちは、 灰身滅智と言い、 身も心もこの世から消えてなくなることが、 輪廻転生から解脱することであると考え、 ひたすら僧団で戒律を守りながら精進された。 彼らから見れば釈尊以外は仏陀として認められない。 あくまでも釈尊が仏陀なのである。

 しかるに、 大乗仏教では、 仏とは、 詳しく言えば、 法身仏、 報身仏、 応身仏 (釈尊) 等様々に表現されるが、 仏というのは、 神の如き霊的な存在で実在するというのではなく、 真実の法の象徴である。

 仏は、 自ずからは真実の法 (道理) を悟り、 他に対しては、 迷える衆生を救わんとする覚体で、 もともと姿かたちのあるものではない、 無相である。 しかしそれでは我ら衆生には永遠にわからない。 故に本来無相であるが方便として姿かたちを取ったお姿が、 如来妙色身という。 法を身体とするもの、 法の体現者という意味で法身仏といわれ。 色も形もない真実の法から、 人間の姿、 人間の言葉をもって仏・菩薩としてこの世に出興されたと表現したのである。

 仏のことを漢民族は翻訳する時に、 「如来」 と訳した。 如とは、 一如とか真如、 如如とも言い、 真実の法の世界を示す。 そこから衆生を救うためにやってきたという意味を含めて、 仏という音写から、 如来という表意文字で示した。 如去という表現もあることから、 如来も最後の一人を救えば涅槃に帰る。 しかし決して、 永遠不滅な霊魂のような存在ではない。 縁に応じて法の世界から現れたのである。

 仏の内容は智慧 (自覚) と慈悲 (救済) である。 密教では、 大日如来が根本仏とされる。 大日如来とは、 体(六大)、 相 (四種曼荼羅)、 用 (三密加持) とか、 除暗遍明、 能成衆務、 光無生滅などいろいろ説明されるが、 智慧の方面から言えば、 大日如来の智慧を五つの智慧 (法界体性智、 大円鏡智、 平等性智、 妙観察智、 成所作智) で表現する。

 この中で、 大円鏡智は、 大きなまどかな鏡の如く、 自分の本性をありのままに知ること (「実の如く自心を知る」) だと説かれている。 要するに、 大日如来は我らの心をありのままに見て知っているということである。

 われらの心も機根に応じて、 さまざまな状態にある。 迷える状態から、 徐々に目覚めていく種々の段階がある。 空海は 『十住心論』 の中で、 人間の精神状態を詳しく十段階に分けて、 それぞれの心の状態を説いている。

 第一住心のように、 煩悩のままに生きる殺伐とした心の状態から、 第二住心のように、 善悪をわきまえ倫理道徳を守る心が生まれる。 そして、 第三住心は、 人間の力の限界を感じ、 神に一切をゆだねることにより安らぎを得る心。 更に、 外に神を信ずることに飽き足らず内面に目を向けていく、 ここから仏教が始まる。

 第四住心の声聞しょうもん、 第五住心の縁覚、 第六住心の唯識、 第八住心の空観、 第八住心の法華、 第九住心の華厳と進み、 第十住心に密教の心が説かれる。

 各宗旨が開祖の経験をもとに教相判釈を建てるが、 空海のような一切衆生を済度せんとするスケールの大きな括りはない。 ただ密教の優れている面を強調するのではなく、 密教以外の教えの特徴を平等に見ている。 曼荼羅の精神から見ると各宗旨の教えを包含している。

 さて本題に戻ろう。 人間と仏の関係である。 人間というと客観的すぎるが、 我と仏の関係である。 一神教のように、 自分の外に実在する神との契約的な関係ではない。

 仏教でいう仏は、 仏というより仏心 (覚った心) といった方が合っている。 仏は迷いから目覚めることであれば、 目覚めた心である。 我らが仏心を信ずることにより、 自分の心にも煩悩に惑わされない、 元々ある心境が開けてくる。 それは、 心そのものは、 凡夫の迷える心も仏の覚れる心も、 本体は同じである。

 六大の中で識大というものがあるが、 心のことを言う。 心は識とも表現される。 地・水・火・風・空大の前五大はわれらの肉体に該当する。 六大から見ると、 大日如来も我も一つものである。 心は前述したように深くて広い、 迷える心もあれば、 心の根源を知りつくした仏心もある。 我が心と仏心は不可分の関係にある。 心の本性を自覚した状態と惑業苦わくごつくの罪悪生死の心では、 聖者と凡夫と呼び名が違うが、 どちらも識大の中での迷悟である。

 二而不二は我と仏は二であってしかも一体であることを表現していると思う。 外面上は我と仏は二つのように見えるが、 内観すると本来は一つものである。 わが心の本性と仏心とは全く別のものではない。

 言葉を変えてみると祈る自分と、 祈られる仏は一つものである。 確かに祈る我から見れば、 仏は祈られる対象である。 同時に、 仏の方から見るなら、 祈るのは仏で、 祈られるのはわれである。 われらは自分が初めて悟りを求め祈っているように思っているが、 仏がこの世に現れた出世本懐しゅっせほんかい (理由) は、 煩悩により業を造り、 迷い苦しむわれらを救うためであるなら、 仏はすでにわれらの為に祈っているのである。 この前提があるのでわれらの祈りが成就するのである。 われらの一方的な祈りだけでは成就しない。 煩悩だらけのわれらの祈りには何ら力がない、 仏の祈りには祈りを成就する力がある。 それを如来加持力という。

 仏教では能所という言葉でも表現する。 能信所信というようなものである。 能信とは我が信ずることを意味し、 所信は信じられるところ、 即ち仏である。 能所一体で、 われの立場から言うか、 仏の立場から言うかの違いで、 我が仏を信じることができるのは仏がわれを信じているからである。

 譬えて言うと、 迷子が母を呼ぶ声がそのまま母が迷える我が子を探す声である。 われらが、 惑業苦の中から救いを求める声は、 そのまま仏が我を救わんとする声である。 この祈りの声を真言という。 われが救いを求め、 仏を呼ぶのがオンであり、 即、 この祈りに応じる言葉がアビラウンケンである。 オンは我らが仏に対する帰依、 帰命の言葉であり、 アビラウンケンとは大日如来がわれを救う祈りの言葉である。 オンアビラウンケンで二而不二を示している。

 仏教の修行の話になると、 我々は、 精神集中して、 煩悩を断じ、 三昧に入る、 禅定に入ることと思っている。 妄念妄想が起こらず、 仏と我が一体になることが三昧ではないかと先入観を持っていやしまいか。 確かに、 瞑想に入ると我と仏が混然一体となり、 一種のトランス状態になる。 またそういう状態に入ることを修行の目標にしている教えもある。 それはそれで尊い修行であるが、 しかし、 いつでもそういう状態に入れる上根上智の人なら容易たやすいことかもしれないが、 下根の我らは、 精神集中をすればするほど次々と妄念妄想がわいて止まない、 そういう我らにはこのような修行は難行道である。

 そういう者のために開かれたのが陀羅尼門、 つまり真言密教の真言念誦であると私は思っている。 これに勝る易行道はない。 精神集中できなくとも、 煩悩があっても、 真言念誦することはできる。 真言は誰でもどこでも何時でも、 となえることができる。 真言は我が祈りであると同時に、 我を救う仏の祈りの言葉である。 真言は真実の法から生まれた加持力を具えた大慈悲心である。 真言そのものが仏である。 真言を念誦する時、 念ずる自分と念ぜられる真言 (仏) は、 一つである。 この時、 我は仏の同体大悲を感する。 それ以外の仏は抽象的な自分とは無関係の仏である。

 法の世界は、 統一がとれ、 無限であり、 清浄、 無碍、 一如、 無相である。 それに比べ我ら衆生は、 無統一で、 有限、 煩悩、 障碍、 我があり、 有相である。 それが如来の智慧に照らされることにより、 我が現実の姿を自覚せしめられる。

 これ仏の慈悲心 (加持力) である。 我が心の現行を知らされると、 心が解放される。 これが二而ににして不二の不可思議なる如来 (仏) の働きである。


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抜粋終わり


こちらのサイトの人が高く評価される密門会さん。

オーソドックスな真言密教を覚鑁思想と組み合わせて在家向けに旨い事仕立てているし、カルトや毒は無さそうなので、参考になると思う。

ぶっちゃけ
>他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 



すべての人・ものに「神性・仏性」があり、

「すべての事が{仏神の}メッセージ」

てことかね。



およみくださりありがとうございます。


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