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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:実体論についての考察

実体論は二元論(多元論も二元論の延長)とセットである。実体を複数立てる思想は言うまでもないが実体を一つしか立てない思想でも二元論になる。例えばプラトン哲学ではイデアという実体を立てて現象界と区別するが、イデア界と現象界が絶対的に隔絶したものとする以上必然的に二元論になるのである。

「実体」を立てる限り究極的には「一元論」はありえないのでは。「一」を立てると必然的に「二」以上の数字も想定されるからである。「一」を立てると、「一以外の何か」を同時に生み出すのである。何かを「一」として取り上げる事は同時に「一とそれ以外」の二つに世界を分ける(分別)事を意味する。

〇数字の概念は自性=実体が無く相互に依存しているので、1は1以外の数字に依存しており1以外の数字は1に依存している。1が絶対的に1なら、1が二つ集まっても1と1であって2にはなれない一元論と言った途端に「一」と「それ以外」が生じ二元論となる。「一」を立てると必ず「二」が生まれる。

「一」と言った瞬間に「世界」は「『一』と『それ以外』」に分かれ「一」ではなくなる。だからこそ「維摩経」の中で維摩は「不二=空=縁起」を示すのに「不二」と言葉では言わずに沈黙したのである。「不二」をいくら言葉を尽くして説明しても、言葉に出した瞬間にそれは「二」になるからである。

〇しかし、一方で「空」を示すのにも言葉を使わないと伝わらないのも事実である。この場合、龍樹の様にあくまで言葉を方便であり、「実体」ではなく「空」と見なした上でなら自由に言葉を駆使できるのである。言葉が空と自覚した上でなら言葉で表現する事による概念への実体視が起きないからである。

空っぽの器に色々な料理を盛る事ができる様に言葉は自性が無い=空だから機能する。AがBに言葉を伝える場合で考える。①Aが言葉を発する②空気の振動が伝わる③Bが言葉を感受し理解する〇この一連の過程は生滅変化する無常な過程である。言葉が不空=常住であれば一連の変化の過程は不可能である。

「一」と言うと「一」と「それ以外」を同時に生み出し対立構造を生じる。ワンワールド主義者の様な「一」を強調する者ほど争いを起こすのはその為である。「ワンワールド」を言う限り争いと抑圧が続くのである。「元から不二」と気づけば多様な文化のあり方をそのまま認める。」はこの状態である。

〇「不二」は「一」とは違う。不二とは「万物万象は相互依存関係=縁起で成り立っており、一とか二とかは究極的には言えない」という事である。空思想は一元論ではないのである。「空」を特別な原理として立てた途端に「空」ではなくなるのである。現象のあり方を「空」と表現しただけなのである。

〇空は一元論ではない。強いて言えば「無元論」である。特別の実体を立てず、空自体に対しても実体視を避け、どこまでも空じていく(空亦復空)。こうして特別な原理としての空も否定される。そうなると何が残るか。生滅変化する現象だけが残るのである。だから「空即是色」「理事無礙」なのである。

「空」を徹底すると、最終的に現象だけが残るのである。言葉と概念で構築する形而上学が否定された現実主義とも言える。だから華厳思想では「事事無礙法界」を究極とするのだと解釈している。現象とは生滅変化する世界。具体的に言うと、眼耳鼻舌身意・色声香味触法という認識と認識対象の世界である。

徹底すると虚無になるのではなく現象が残る。「存在」とは具体的に言えば個々の現象の事であるので、存在自体を否定する虚無論とむしろ逆の結果である。しかし、現象は常住ではなく常に変化する。だから「実体としての有=実有」も同時に否定される。こうして有と無の否定=中道が空だと分かる。

空を徹底すると現象だけが残る。そして、その現象を成り立たせている原理(もちろん形而上学的なものではない)が「縁起」(縁って起こる)なのである。「空」を時間的に表現すると「無常」となる。だから、縁起=空=無常なのである。これらは全て生滅変化する現象のあり方を表現した言葉である。

「空を徹底すると現象だけが残る」というのは多様な現象世界を特別な形而上原理で一元化ないし二元化させようという志向とはまさに真逆である。空思想を度々参考にしているのは、根源的なレベルで「破ワンワールド思想」「破NWO思想」をなしうる発想の可能性をそこに見るからである。

「多様な現象世界」と書いたが多様かどうかはあくまで認識主体たる人の視点次第である。万有が相互依存しているという面に注目すると「不二」であるし、相互依存的に条件づけられながらも個物が成立している面に注目すると「多」と見る事もできる。要は「世界をどう見るか」という視点によるのである。

「個物が成立している」と書いたが、個物の成立には言語が介在する。現象は条件づけられて生起するので究極的な意味では真の「個物」は無いが、条件づけられて成立する現象を適当な範囲で区切って名称を与えるとそれが「個物」になる。例えば、人間の皮膚を境界として名称を与えると「個人」となる。

〇栄養を摂取したり、空気を吸ったりしないと人間は存在しえないから人間と自然界は一体の現象である。しかし、皮膚を境界にして人間を個人存在と見る事もできる。この場合、個人存在を生み出す鍵となるのが名称である。人間だけではなく万物がそうである。つまり「万物=名称と形態」である。

〇「ワンワールド」なる事物も「世界を一つと見る」という「視点」と切り離せない。「世界を一つと見る」のは別に勝手にすればいいが、それを現実に「世界」に押し付けるから問題なのだ。世界は視点次第で不二とも多とも見る事ができるのに、固定化した「一」のみを押し付けるのは馬〇のやる事である。

〇山を遠くから眺めたら「不動」に見えるが、実際に山に入ってみれば動植物などが息づく「動」の世界である。宇宙空間から地球を眺めたら「青い星」なのかもしれないが、地表の上で暮らしていたら別に青くはない。「見る視点」をどこに取るかで事物の姿は変わる。NWO思想は視点の固定化の産物である。

要するに国際秘密力の連中は世界を「我が物」だと妄想しているから世界が「一つ」に見えるだけである。「世界は一つ」とは「世界を一元的に支配したい」という欲望の表出以外の何ものでもない訳である。NWO思想とはただそれだけの事に過ぎない。あの連中は傲慢すぎて視点を相対化できないのである。

〇欲ボケ国際秘密力は悪知恵だけで、やはり根本的には頭が悪すぎる。魔術や洗脳科学の類をいくら極めても欲にまみれているので簡単な事実すら見えていない。日本人には先人が残してくれた偉大な遺産がある。戦国から江戸期の「破吉利支丹」の様に「破国際秘密力」できると信じる。

〇プラトン思想が「現象」を「無」とし、イデアという「実在」を「有」(実有=他に依らないで存在する実体としての有)とする思想とすれば、空思想は「実在」(実体的存在)としての有も無も共に否定して「現象」を「仮有」として認める。仮有とは因縁に条件づけられて存在するあり方という意味である。

〇中論に「縁起が空であり仮であり中道である」とあるが、この中の「仮」が「仮有」の事である。縁起の道理によって条件づけられて存在する現象に「仮に」名称を与える事で「個物」として成立する(所与を所識として認知)。「仮に名称を設定する」という事で「施設有」(せせつう)などとも呼ばれる。

〇ちなみに「龍樹」中村元著(講談社学術文庫)によると「非有非空の中道」という天台系の解釈は誤りだそうだ。有無の中道が正しい。縁起=空=仮=中道であって、「有と空の中道」ではないのである。「有無の中道」が縁起であり空であり仮であり中道であるのだ。論理としてもそちらの方がすっきりする。

〇「非有非空の中道」は空を無に引きつけた解釈という感じがする。空は有と無の中道なので無に引きつけた解釈は筋が通らない所がある。空思想は現象を「仮有」として認める訳なので「無」に固執するニヒリズムとは全く違うのである。相対的な有無を超えた生成変化の「道」を重視する老荘思想とも通じる。

「第一原因」の迷妄。西洋ではゴッドや一者など「第一原因」を立てる。しかし、「原因と結果」とは無常な先行現象が無常な後続現象を引き起こす一連の無常な現象の流れを記述する為のカテゴリに過ぎない。原因は実体ではありえない。原因が不変の実体であれば結果への変化や遷移があり得ないからだ。

〇原因Aと結果Bが其々「実体」なら二つの関係しかない①AとBは同じ②AとBは異なる〇①の場合は原因と結果が同じになってしまい矛盾。②の場合はAとBが異なるならBにとりAと同じく異なるCもDも原因となってしまいAが原因である必然性が失われる。この様に実体論では因果関係が成り立たない。

それ自体が無い=空だから「有」ではなく因縁に依ってあるから「無」ではない。だから「有無の中道」である。現実の現象のあり方は実体的な意味では「有」とも「無」とも言えない「空」なるあり方をしているという観察である。言葉=概念による有無の二元論では捉えきれない生滅変化する現象のあり方。

〇「第一原因」についてだが、物事は単一の原因だけから生起する事は無いので「原因を遡れば第一原因に辿り着く」は間違った推理である。物事は常に主要な原因と副次的な原因の複合によって成り立ち、それらの原因もまた複数の原因条件を持つ。複雑な原因条件関係の網の目に「第一原因」は見つからない。

〇「第一原因」論では「A→B→C・・」という単一の原因から単一の結果が出るという単純な因果観を前提にしている。しかし、先述した様に原因と結果を単一の実体とすると因果関係自体が成り立たない。因果観そのものが誤謬を含んでいるので、それを前提にいくら因果の系列を遡っても結局は誤謬に陥る。

〇「物事は因=原因と縁=条件に依って生起する」という因縁のあり方からすると、原因条件を遡る程、原因条件が無数となり無限に拡散する。何故なら原因条件にもさらなる原因条件があり、原因条件関係の連鎖は尽きる事がないからである。したがって、固定した第一原因を求める事は思考の無駄遣いである。

〇仮に宇宙の始原があるとしたら、第一原因の様な実体的なものではなく日本書紀で言う「混沌」とか支那で言う「元気」の様な無常で変化するエネルギーの塊みたいなものだとすると論理的な筋は通る。だが第一原因は万物の始原とされるものの不変とされているので生成や創造という変化と論理的に矛盾する。

〇と言っても、どの民族も天地開闢の神話(民族の世界解釈の仕方を反映)を持っている訳で、その優劣を比較する事に意味はない。ただ西洋の場合は第一原因を単なる世界観の反映や神話ではなく実際に存在するものとして固執するから問題が起きるのである。だから、それを検証し相対化する事に意義はある。

形而上学については基本的「無記」の姿勢で臨むのが無難である。検証しようのない事柄で特定の断定的見解に固執すると争いが起きがちだからである。ただ「正しいか間違っているか」ではなく「論理的に筋が通っているか否か」は検証する事ができる。後者の検証は無記に反していないと考える。

〇という訳で、形而上学的見解の評価についてはあくまでも無記の姿勢で臨みつつも、西洋における「第一原因」という考え方はキリスト教や神秘主義という形をとって現実世界に影響を及ぼしているので、その限りおいて現実的に検証できる「論理的に筋が通っているか否か」を検証してみた次第なのである。


https://twitter.com/kikuchi_8/statuses/730895268153974785



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抜粋終わり


お読みくださりありがとうございます。
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