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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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孫子 戦わずして勝つべし 曹操の「孫子」理解と活用 より

上記文抜粋
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 曹操の「略解」は、呂布について記した場合をのぞき、みなこの「伝うべからず」の原則に立っている。彼の「猶、洩らすがごとき」は、一見「伝うべからず」の訓釈のように見える。だが、これが訓釈であろうか。語釈にもなってない。言いかえに近い。 
 もともと、「孫子十三篇」は、言葉そのものは、素通しがよく、わかりやすい。わかるが、前後のからみをふくめて、よく考えると、わからなくなるところに、難解さがある。反復をいとわずにいえば、孫子の言語否定は、不測の奇のために、むしろ言語不能とみたところから出ている。 
 しかし、その不能をも言語構築しなければならぬとしたなら、どうすべきか。孫子が考え付いたのは、宇宙の原理、道教の「無」を原理をモデルとすることである。つまり、孫子は、「十三篇」をもって宇宙を構築しようと思いついたはずだ。そのために、独特の「正奇」の隠秘学が、成立した。そのことを曹操は、「深きかな」と見抜いた。
 だが、見抜いた曹操にも、ジレンマがある。見抜いたところで、それを文章にすることは、孫子と同様に矛盾だからである。語釈訓釈の無意味さ、具体例の無意味さも知っている。だが、なにを言わないではいられない。では、どうすべきか。つまり、彼もまた孫子にならって「隠秘」をほどこすしかない。それが、彼の「略解」の正体である。 
 「奇」に対しては、臨機応変しかない。「正」は、体験によって理解が熟するが、「奇」にあっては、不能である。だから、彼の否定する「况文」は、歴史的体験が記述者の自己の体験である。そのかぎりにおいて、それらの体験はかけがえのなく正解だが、それだけの一回性のもので、不測の兵変に通じない。宇宙を模擬し、「易経」を模擬したといわれる「麻雀」などは、配牌はもちろん、同一の展開はありえないといわれるが、戦争もまた同じなのである。だから「正」が重要なのだ。「正」とは「奇」によって壊され。また「奇」を佐ける存在なのである。
 戦争だけでない。スポーツにも、画業に、男女の関係にも、企業管理にも、この森羅万象に、この兵法の原理が通有するのである。
 「論語」を全章エロチックに解釈した人がいるというが、「孫子」も閨房術として解釈できるはずである。



曹操が、具体例を拒否したのは、すべての戦いは一回限りで、代替不能の相対的なものでしかないと知る、孫子もそう思ったと考えたからだ。

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抜粋終わり



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