(2008/6/21 名古屋市日本ガイシフォーラムでのスマナサーラ長老法話メモを連投します。)
Q:輪廻する主体は何でしょうか? 我がないのならば、何が輪廻するのでしょうか?
A:我がないから輪廻するのです。輪廻のことは解らなくてもけっこうですが、主体がないのだからこそ変化できるのです。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
主体が、何か変わらないものがあるなら、消化できないものをおなかに飲み込んだようなものです。宇宙全体どこを見ても、核たるものはないのです。原子核という核にしても変化しています。自我を前提とした思考では、輪廻は理解できません。自我意識を破らなければ[いけないのです]。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
自我[の錯覚]が破れれば、「なんだ当たり前のことだ」となります。変化することが生きることです。実体があったら困るのです。ご飯さえも食べられなくなります。
無常だから、実体がないから、物事は変化するのです。変化するということが輪廻です。今の状況が止まれない、変化するのだということ。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
変化には停止が成り立たないのです。何かに変わって、変わって続いていく。止まることなく変化する。わからないのは、「『私』が死んでどこに行くのか?」と訊いてしまうからです。それは「馬の翼はどのくらい長いですか?」と訊くようなもの。質問自体があまりにもアホラシイのです。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
元の紙をイメージできるでしょうか。紙を燃やすと二酸化炭素ができます。二酸化炭素を見て、「これはこないだ読んだ週刊誌の紙だよ」といえるでしょうか。週刊誌という実体があったなら、二酸化炭素を見てそれがわかるはず。実体があるというアベコベ思考では、輪廻の理解は無理です。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
私が具体的に、人生を一週間で変えることについて教えているのに、それにはまるっきり無関心で、「輪廻転生はどうなんでしょうか?」と訊く。やっと幼稚園に入った子供が、幼稚園でやることを何もしないで、「お母さん、宇宙船に乗せてください、宇宙を旅したいんだから」と駄々こねるようなものです。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
また他宗教の立場から考えると、人間はみな原罪で苦しんでいると。女性はお産で苦しむと、『聖書』に書いてあります。神の怒りによってわれわれの苦しみがあるという。神は全知全能で慈悲深いといいながら、永遠に人類を呪っているのだから。とんでもなく恐ろしい思考でしょう。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
人間は罪を犯した本人は罰しても、関係ない家族は逮捕しません。それに比べて神はなんだと。[宗教の神話物語は]屁理屈です。その屁理屈を発見したら、囚われないで済みます。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
神が人類に苦しみを与えたというなら、その苦しみは同一のはずです。しかし、生きる苦しみはそれぞれです。なぜ苦しみが個人個人違うのか。原罪の話を信仰する人々に聞いてみたいのです。原罪なら全員同じはずです。しかし、苦しみはそれぞれ違う。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
もし解脱を体験できなくても、仏道を歩めばその日から幸福になるのです。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
自我というものは成り立たない。すべては絶え間なく変わるんです。太陽も、地球も変わり続けていますが、それぞれの変化の周期は違う。花の変化も違う。手のひらの氷の変化のスピードも違う。現象の世界ではばらばらに変化しますが、真理の世界では、物質はみな同じスピードで変化します。
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
だから死後の世界はどうでもいいのです。心清らかにすることに励んでください。(了)
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
— スマナサーラ長老の仏教法話 (@jtba_talk) 2018年3月29日
そもそも「諸行無常」だから、永遠に続くものがないので、魂も無い。
でも「万物は無限に変化する」ってこと一端が「輪廻転生する」ってことなのであろう。
確固して永遠に続くものは無いのに、それを信じる執着が、輪廻転生させる。
個我など、それほどしっかりした物でもないのに、それを後生大事にするので、不幸になる。
あるいは「個我」など、万物・自然の理方からいえば、妄想を信じるから、苦しむ。間違った物の考え方をしているのだから。
でもこれで説明し切れたとも思えん。でもまあ間違いでなければ幸い。
あと空海が「大日如来は、個我など無いと悟られて、大いなる我を得られた」と書いている。
多分正しいと思う。
余談で、荘子が「死んでネズミの肝になっても、虫の足になっても、結構なものだ」と言ってのけている。
そういう心境にでもまずならんと、わからんのだろう。
まあたまにはこういうのもいいかな。
お読みくださりありがとうございます。