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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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なんとなく、儒将 てフレーズが気になる。

西郷隆盛は、一種の「儒将」てことだ。

て私も厳格には「儒将」ってわからん。


でも「モラルと学識と世界観・思想も備えた、将帥」ってことでありそう。

三国志の諸葛孔明も有名だし、清朝末期の曽国藩も儒将と言われる。

意外とバリバリの軍人でもあった岳飛も、儒将とされるそうで。


そういえば、後漢初期のイケメン将軍の祭遵が、儒将の称号の元祖かな。

主君の光武帝も儒学の勉強をしていたけど。劉秀さんはどちらかというか道教的信仰と法家的統治法の政治家で、戦い方は関羽・張飛に近いところがあるから違うかな・・。



日本ではそういう人は、いなかったけど、それなりに「理想化」はされていた。

で、その思想性とか世界観ってのを抜きに「精神論・軍事論・忠誠心」だけを重視することで、

日本は「全体性」を失って、前の敗戦・今度の滅亡に至るように思える。


まあなんとなくの仮説の書き損ねの文章ですけど。


あと儒将の参考に・・て孟キョウは、禅にもすぐれていて無門関にも名を残してます。

南宋ー孟珙-宋史412巻 

翻訳したばかりだそうで、漢文調ですけど、参考に。

後漢の建武28将の一人朱祜も、儒将といえるかな。

参考

有名どころの諸葛亮は自分で調べて。


あと王陽明も典型的儒将の一人言い得る。
中華名将禄 王守仁

上記文抜粋
・・・・・・・・

盧蘇、王受ははじめ安撫を受けなかったが、王守仁至ると聞くと恐れ震え上がると同時に大いに喜ぶ。
王守仁が南寧に到ると二人は使者を遣わして投降を請い、王守仁の軍門を詣でる。
二人は「王公は詐術巧み、恐れるはわれらが欺かれることのみ」といって入見。
王守仁は二人の罪を数え上げ、杖刑をもって彼らを釈放。
親しく営に招き入れ、その衆7万を慰撫した。
朝廷に捷報を上奏し、用兵10条、招撫10条を陳述。ここにおいて流官を置き、田州の地を測量して一州を立てた。
岑猛の次子、岑邦相をもって吏目に任じ、州事を代行させ、功労によって州知事に抜擢を受けさせる。
また田州に19巡検司を置き、盧蘇、王受らをこの任に充てる。また約束して流官を府知事に約した。帝はみなこれに従う。

・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


戦わずして勝ち、無殺。まさに神算鬼謀の名将・・。




お読みくださりありがとうございます。
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