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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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現代を斬る~時評と考察  より

上記文抜粋
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遮情霊の似非真理

  阿含宗に入会する前は数年、真如苑に在籍したので、その時自分の状況がどうなったのか、いつか「遮情」という所感を持ったと記したが今回改めてそこにスポットを当ててみたい。真如苑に入ると涅槃の釈迦、これが本尊であるが、その他に十一面観音、不動明王、清瀧権現という龍神、笠仁稲荷という5尊の他に、伊藤家の人々として真乗・友司夫妻、智文・友一両童子を神格化された存在として拝むのであり、現教祖である真聡(真砂子)苑主=継主、妹の真怜(志づ子)擁主、これだけは最低尊重しなければならない。

  しかしその過程で私に憑依・降臨wしてきたのは「力の強弱がすべて、気持ちの配慮は無力」とする霊なのである。何故かといえばこの霊はすべてを恣意的な念力の行使によって行うが、その際邪念・煩悩を嫌うのである。従ってあれこれ配慮に思いを馳せるとかえってうまくいかなくなる、と私の狭い経験では考えている。阿含宗も若干人間的にはなるが似たり寄ったりで、これは寒行や滝行の末、行者の霊を引き寄せ、感得したと思われる。高橋信次氏の霊ではないが、このように寄って来る霊は自分と似たり寄ったりのレベルである場合が多く、それを宗教的に見上げて仰ぎ奉ると、うまくいかない場合が多いと思う。

  つまりそうした憑依霊・低級霊の指し示す「真理法則」なるものは実はその生前の人物が思い描くひとつの考えにすぎないことが多いのだが、ではこのような憑依霊に付きまとわれた場合にはどのように対応すればよいのだろうか。私の対応法は、まずこの憑依霊は低級霊で神仏ではないんだ、固く断定するということである。このような憑依霊は人物の状況を「明らかに運のいい状況」「明らかに運の悪い状況」これを恣意的に繰返し、その人物が感情の起伏を波打たせる、その起伏自体がエサではないが、この低級霊は人物の感情が波打つのを非常に愉快痛快に感ずる、それを愉しみにして延々と繰り返すのが目的wという霊なのである。

  従ってここは「この状況はよい」「この状況はよくない」という内面の判断を止めて、生活の営為に集中することである。運のいいも悪いもない、そうするとその憑依霊は感情の起伏という“エサ”=愉しみがないので、当初はもっともっと奇抜かつ衝撃的な事態を引き起こして耳目を引こうとするが、次第に諦め、他の人のところに行ってしまうw つまり低級霊ではあるが自身を神仏として祀ってほしいので、人物の願いが叶えば「ほら私のおかげだよ」失態を起こせば「お前を騙せるんだよ」と自尊に走るのである。

  これらは迷える低級霊であるので、このような憑依霊から提示された「いまはよい状況」「現在は悪い状況」という認識判断を鵜呑みにしてはいけないのである。このような霊を称賛供養し供物を捧げたところで悪くなるだけである。逆に攻撃でもしてやればこちらになびくかも知れないw 私のおすすめは憑依霊の念力をそのまま相手方に打ち返すというやり方、これがいちばん無難のように思う。

  福祉施設で凄惨な事件があったが、あれも能力の優劣のみという世界観がある。本来そこを矯正するのが宗教の役目だが、霊の世界・念の世界では逆にそのような観点を肯定する霊を引き寄せてしまう場合もあるということだろうか。自分自身への劣等感を障害者への蔑視に転嫁し、そこを削除しようと行動したように見える。しかし現在、人間は能力の優劣がすべて、配慮の有無は関係なしという考えは社会に蔓延しているように思われる。

  真如苑の霊的世界を考える一助になっただろうか。これは「似非真理」、一種の魔力・魔性であると私などは考えてしまう。もうひとつ、第3の眼、サードアイ、第6チャクラ、ネットでは超能力の窓だ、いや悪魔霊界への窓だ、と賛否両論であるが、これも前述したように怨霊・低級霊はそうしたエネルギーポイントを狙って憑依した方が人物全般の洗脳操作に効率がよいわけである。だからチャクラ開発とチャクラ浄化はセットでやった方がいい、ということになるだろう。

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抜粋終わり

元カルト信者の人のブログより・・

辛酸甘苦を舐めて、ようやく、カルトを脱出できたようで。

さらに


おなじく より

上記文抜粋
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お遍路と人生

  この1年ほとんど公の場に姿を現すことがなかった、西武、巨人などで活躍した元プロ野球選手の清原和博氏(47)は今、四国霊場八十八カ所を巡る「お遍路」を歩いている。薬物使用疑惑報道によるイメージ悪化と離婚で、家族も友人も仕事も失った男は旅先で何に触れ、何を感じているのか。そのうちの1日、約15キロの道のりに同行し、胸中に迫った。


 4月下旬、午前8時すぎ。高知との県境まであと10キロに迫る徳島・海部駅前。菅笠に白装束の清原氏が金剛杖を突いて歩いていた。現役時代に故障した左足を引きずる姿が痛々しい。こわもてをさらに険しく曇らせながら、山と海に囲まれた四国路を進んだ。

  同じスタイルの「お遍路さん」はほかにもいるが、黒い肌と大きな体がひときわ目立つ。「清原や!」「大きいなぁ」。数十メートル進むごとに握手やサイン、記念撮影を求める人が次々に集まってきた。清原氏は表情こそ硬いままだが、そのほとんどに立ち止まって対応。飲み物や食べ物などの差し入れを受けると、お遍路の名刺にあたる「納め札」をお礼に手渡した。

  四国路に出たのは3月16日。1年間で全てを失ったことがきっかけだった。「昨年3月の(週刊誌の薬物使用疑惑)報道に始まり離婚もあって、仕事が減り周りから人もいなくなった」。自暴自棄になる中、自殺も考えたというが「息子2人のおかげで生きていられる。自分自身を見つめ直すため行動に移そうと思った」選んだのがお遍路。「現役時代、両親が2度も歩いてくれた。そのお母さんが体調を崩していて、病気を患っている友人もいる。僕は2人のために頑張りたかったし、自分自身の修行でもある」

  週末は、離れて暮らす息子2人の少年野球を見守る大切な時間。そして、平日に八十八カ所を少しずつ回る「区切り打ち」を重ねる。「区切り打ち」とは1200キロを超える全行程を何度かに分けて歩く巡拝方法。これまでの生き方に区切りをつけたいと願う気持ちに重なるのは何かの縁か。今月10日までに約300キロを踏破。1番札所の霊山寺から23番の薬王寺まで参拝した。

  道中では「懺悔の念を深めている」。家族や友人が離れてしまったのは自身の責任もあったと自覚しており「応援してもらって当たり前と思っていた。もっと家族や周囲への感謝の気持ちを大切にしなければいけなかった」と悔やむ。 (スポーツニッポン、2015年5月12日)



  このお遍路という修行、かつて私もアルバイトが決まらないので練馬観音巡礼を思い立ちなんと1日で挫折しましたw でも結局練馬中を廻る安定した仕事にありつき、結局西武グループ全域で応援していただきましたからねw爆発的ご利益があったわけです。
弘兼ご夫妻と五島先生も私のことを知って下さったわけですから、石神井にもお寺があるのです。
一方私の両親はドライブ小分け巡礼ですが、まず秩父34観音を制覇、次に坂東観音をほとんど廻ってあと3・4ヶ所になったんですね。
私は都内で別居ですが、月島で回向院に善光寺出開帳のポスターを見たんです、それで両国まで行ってきた。
どうもこの信濃善光寺、私は甲斐しか行ったことがありませんが、ここが坂東観音巡礼の終点らしいのです。おふくろは全部を廻らず亡くなってしまいました。

もうひとつ、巡礼とは違いますが阿含宗のチラシ配りという「修行」があって、これも巡礼なんだ、やっているとアタマが真っ白になっておかしくなるんだwと先輩がお話をされました。
だから「何のために」とか「これこれの功徳・目的のために」という観念を棄ててチラシを配っていたのですが、教団を追放されるようにして退会しました。

その代わりといっては何ですが件の宮司先生の浄化法に出会ったわけですね。
ですから1日で挫折して爆発的ご利益の不心得者がコメントする資格はないのでしょうが、お遍路や巡礼の功徳は予想不可能、意外な方向から来る、ということは言えるかも知れません。
清原容疑者も自業自得とはいえ現在毒出しで大変な思いをしていますが、芸能人・有名人の方でも宗教の修行をされている方もおられるみたいです。早く健常な心身を取り戻していただきたいものですね。


  むかし天長の頃、伊予の国浮穴の郡荏原の郷(現在の松山市久谷恵原荏原)という所に河野衛門三郎という、強欲非道な大百姓が住んでいました。ある日衛門三郎の家の前に、一人の旅のお坊さんがやってきて托鉢の鈴を鳴らしました。心地よい昼寝を破られた衛門三郎はお坊さんを追い返そうとしたのですが、動きません。 腹を立てた衛門三郎は、竹箒でお坊さんの椀をたたき落としました。すると椀は8つに割れて飛び散ってしまいました。そんなことがあった翌日から、衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまいます。

   さすがの衛門三郎も声を上げて泣きました。ある夜衛門三郎の夢枕にあの旅のお坊さんが現れ、「全非を悔いて情け深い人になれ」 と告げます。夢から覚めた衛門三郎は自分が強欲であったことを悔い、あの時の旅僧は弘法大師だと気が付きました。衛門三郎は弘法大師に許してもらおうと、四国を巡っている大師を捜して四国の道を東からまわったり、西からまわったりして歩きますが、なかなか出会うことができません。四国を二十数回まわったところで、阿波(徳島県)の第12番札所・焼山寺で倒れてしまいました。

  その時衛門三郎の前に弘法大師が現れ、「これでおまえの罪も消える。最後に何か望みはないか」と声をかけました。衛門三郎は「故あって離れている河野一族の世継ぎとして生まれ変わらせてください。今度こそ人々のために尽くしたいのです」と言いました。すると弘法大師は「衛門三郎再来」と書いた小さな石を息を引き取る衛門三郎の手に握らせました。

  それから数年後、伊予の国(愛媛県)道後湯築の領主・河野息利に玉のような男の子が生まれました。ところがその子は幾日経っても左手を握ったままで開きません。そこで道後の安養寺の住職に祈願してもらいます。「きれいな川の水で洗えば開く」とのお告げがあり、そのお告げのとおりにすると、手が開いて中から「衛門三郎再来」 と書かれた小石が転がり落ちました。男の子は衛門三郎の生まれ変わりだったのです。その小石は安養寺に納められ、これを機に寺号を「石手寺」に改めたといいます。(HP「四国遍路へのいざない」より抜粋)

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抜粋終わり

>だから「何のために」とか「これこれの功徳・目的のために」という観念を棄ててチラシを配っていたのですが、教団を追放されるようにして退会しました。

>ですから1日で挫折して爆発的ご利益の不心得者がコメントする資格はないのでしょうが、お遍路や巡礼の功徳は予想不可能、意外な方向から来る、ということは言えるかも知れません。

この記事の時示郎氏は、カルトを辞めれた・・・て功徳があった・・・。


ともわれ、

>しかしその過程で私に憑依・降臨wしてきたのは「力の強弱がすべて、気持ちの配慮は無力」とする霊なのである。

> 福祉施設で凄惨な事件があったが、あれも能力の優劣のみという世界観がある。本来そこを矯正するのが宗教の役目だが、霊の世界・念の世界では逆にそのような観点を肯定する霊を引き寄せてしまう場合もあるということだろうか。自分自身への劣等感を障害者への蔑視に転嫁し、そこを削除しようと行動したように見える。しかし現在、人間は能力の優劣がすべて、配慮の有無は関係なしという考えは社会に蔓延しているように思われる。

例の神戸の偉い人もそうですよな・・・





時示郎氏も、当初は、カルトを行脚していた。
どうも多くの人の場合、カルトを行脚して破滅・・て傾向が強いように思う。

仮に、教団カルトを抜けても、天皇カルトに入る・・・・・。


本当に、カルトは残酷で凶悪だ・・・・

かの菊池さんから「天才的」とも称されたねこたさんも、自身の病と親の代からのカルト離脱の辛酸で、ネット言論から離脱・・・・まあカルトから脱出できても、結構なダメージを受けた・・。

でもねこたさんが、本当にカルトを抜けれて良かった。と他人ながら心底私は思う・・・。

なんせ、日本はカルト教主が象徴でトップだからな・・・。

参考 1

参考 2


>ただ日本の密教には道教を取り込んでいる部分がある、というお話でした。そして首相参拝で注目の靖国神社の宗教的起源は、伊勢神宮の系列ではなく、道教や新興宗教の考えに近いのではないか、ということが言えそうです。

これって大事な意見ですよな。

参考 3


残りにこれ

おなじく より

上記文抜粋
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すべて雪のせい? 新興宗教批判

  センター試験時には免れた大雪も2次本試験時期を直撃w受験生の皆さんは出発をお早めに。
ということでブログを更新する暇が出来たので、ここは本旨に還り、阿含宗・真如苑・創価学会をまとめて批判してみたいと思います。
まず2月11日に京都の星まつりを控えた阿含宗ですが、阿含経で明確に否定されている三毒(貪・瞋・痴)を阿含宗でもそのように否定しているか?という点がポイントですね。

桐山管長の愛人である2代目管長予定の女性幹部局長がアメリカ支部を閉鎖転売し、自分の資産にしてしまったようです。
元はといえば信者からの浄財(寄付金)なのですが、阿含宗は必要経費以上の寄付金額が集まることも珍しくありません。
それを幹部連中の資産形成や嗜好品購入に流用しているとしたら、これは釈迦が忌避した貪欲に当らないのか?という点ですね。
桐山管長や幹部も己のプライドや体面が損なわれるとよく激昂し、恫喝に近い指示をするがこれは瞋恚には当らないのか? 
ということです。
阿含宗の幹部は因果応報の理を省みない悪業三昧、これは無知には当らないでしょうか。
このように三毒の条件を充分満たす阿含宗を認め信ずることは七覚支法の択法覚支に反します。釈迦のいう「悪」とはこの三毒のことですから一般的・主観的な「悪」とはいったん一線を引きましょう。
ですから桐山阿含宗を認めることは釈迦と阿含経に対する背反となり、それは因果応報の理として顕現するということでしょう。
京都・阿含の星まつり参加行為も全く同様の指摘がなされると思います。


  次に真如苑ですが前回述べた「の・ようなもの」に続けて今回は「ジュンダの逸話の誤解」。これは真如苑には限りませんがジュンダという貧しい鍛冶屋がなけなしの食物を釈迦に供養したが、釈迦はそれを食されて病み、結局入滅に至ったという説話があります。
これは生死二世を貫く涅槃の教えに通ずるものとして真如苑でも重要視されよく引用されるお話です。
当然真意は「贈るモノよりも供養するココロが大事」ということで真如苑でもそのように解説されますが、卑見では真如苑の魔障宗教霊は愚鈍であり、この話を「相手に毒を盛ることが大切・肝心!」と曲解しているようなのです。
そんなことはとても言っていませんねw 
冷凍食品事件の当時、私は偶然毎日冷凍食品のチャーハンを食べていました。事件が起きて気持悪くなってしまったのですが、結局この事件で冷凍食品は各店頭で割引価格となり、私も沢山買い込んで毎日食べていますw
 名張ブドウ酒事件、立川の警備強盗事件、藤沢の遠隔操作事件、この冷凍食品農薬事件、背後の霊的因縁まではボンクラにはとても理解不能ですが、もしかすると真如苑の関係者がボンクラを狙ってきているのかも知れませんね。
都知事選の細川候補は立川や銀座で大盛況だった模様ですが真如苑の霊は普段味方として応援していても肝心なところで姿をぱっと消失してしまいますよw 
そして後にはかけがえのないものが失われた莫大な負債だけが残る―というのが個人的な感想です。

  最後に創価学会ですが、今回は念力と霊視を一緒の原理で説明します。
それは「思った物事がそう観える」。砂漠の中のオアシスという逸話がありますね。「水が呑みて~」と砂漠の中を漂流していた人が眼前に豊潤な泉を見つけた。
早速水を両手に汲んでがぶがぶ渇いた喉を潤したが、我に返ると口内は砂漠の砂でジャリジャリであった、というお話です。
創価学会は信仰を始めてアル中・色狂い・博打借金三昧がぴたっと止まる人とそれらが猛然とひどくなる人に二分されるようなのです。
会員でも肝心の願望は叶わなかったり霊視しても根本的な点を見落としていたり運気が落ちたりする人がいるようです。霊能力が強いのに何故ここまで現実世界と齟齬があるのかといえば、創価学会の人も潜在意識内に独自の「創価ワールド」「法華ワールド」を打ち立ててしまっているからで、その潜在意識内に砂漠の中のオアシスのような幻影がより現実感を伴って顕現して来てるから、というのが卑見による理由付けです。私が虚業だと通じることも実業だと通じないこともあるよ、というのはまさにこの点ですね。
私個人の星まわりとしては(震)まさに虚業(マスコミ・宗教・水商売?)向きなのですが・・・もう一点、面白いことに創価霊能のある人は(これは阿含宗でもそうですが)読心術ができるのに霊能のある同僚たちを欺こう、騙そう、嘘でごまかそうとする傾向が多々見受けられることです。
論理的に嘘をつかれないための読心術じゃないの?と部外者からは思うのですが、こういうところにマッチ・ポンプと揶揄されても仕方のない自己矛盾が顕れていると思います。つまり念力・霊視とはいえ、表面上のごく浅いものであり、本人の錯誤によって結局相殺されてしまう能力のように見えてしまうのです。


・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


この三カルトの総元締めが、天皇制。

日本会議・統一教会政権である安倍政権の言動・政策をみたら、そのものですから。

改めてそう、三カルトの総元締めの・・・天皇家。

今の日本は、三カルトの毒を全部うけている・・・


阿含宗~嘘つきと贈収賄のオンパレード

真如苑~放射能・ケムトレイルの毒入り食品と、新自由主義

創価学会~自己責任論とスピのだまし。


本当に全部だ・・・。





お読みくださりありがとうございます。

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