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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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アバンギャルド精神世界 より

上記文抜粋
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豊国大明神


◎人を祀った神社の末路

太閤秀吉は、農民上がりであったが、位人心を極め、難波のことは夢のまた夢と栄華を恣にした。ところが彼の没後、陵墓たる京都阿弥陀ヶ峰の豊国神社は、1599年の創建後、二度にわたる破却をこうむった。最初は1615年の家康による第一次破却であり、この時は秀吉の正室ねねの哀願により、参道と廟墓だけは破壊を免れた。破壊された豊国神社の敷地には、家康と天海の命により天台宗門跡寺の妙法院が置かれ、この妙法院がしきりに破壊工作を行い、1619年参道はふさぎ、豊国神社の社殿は毀つという挙に出た。こうして1640年頃には、この一帯は荒涼たる廃墟となっていたという。

今修学旅行、観光旅行で行く文化財の多くが、信長、秀吉、家康の手になるものであり、一方で明治時代から昭和20年まで日本最大の富豪とされる人々によるそうした建築や文化財が少ないのは、意外なことである。

信長、秀吉、家康の時代も戦乱に次ぐ戦乱で軍事投資が多かったが、スピリチュアル投資も相当にやってきた。明治時代から昭和20年までも軍事投資が多かったが、文化財という形でのスピリチュアル投資には見るべきものはなかったというところか。創建当時の明治神宮本殿は、米軍の空襲により焼失し、今の社殿は、寄付により昭和33年に再建したもの。

社殿陵墓の華麗さが、スピリチュアルのバロメーターではないが、スピリチュアルを支える重要なファクターの一つであることは間違いない。そういう場所は、しばしば天然のパワースポットだからである。

人が去れば地を巡るの法則で、有力覚者が亡くなれば、その弟子たちは、パワースポットや他の人に知られぬ覚者を求めて地をさまよう。

だが豊国大明神も明治神宮も人を祀った神社。そこはそのように対して行くべきものだと思う。


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抜粋終わり


>観光旅行で行く文化財の多くが、信長、秀吉、家康の手になるものであり、一方で明治時代から昭和20年まで日本最大の富豪とされる人々によるそうした建築や文化財が少ないのは、意外なことである。

>信長、秀吉、家康の時代も戦乱に次ぐ戦乱で軍事投資が多かったが、スピリチュアル投資も相当にやってきた。明治時代から昭和20年までも軍事投資が多かったが、文化財という形でのスピリチュアル投資には見るべきものはなかったというところか。


信長の衣鉢もついだ江戸幕府の永い隆盛と、維新志士とかいうテロ集団に作られた明治カルト帝国が100年ももたず山河を焦土化かさせた差というのが見えますは・・・。


人間の品性のは、時代が進むと進歩するとは限らない…てことか。


お読みくださりありがとうございます。
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