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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
प्रज्ञापारमिता  より

上記文抜粋
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仏身論


仏教において、たとえば法有の立場の部派仏教のレベルにおいては、諸法は対象であり、客観的なものである。これはきわめて常識的な考え方であって、近代科学や他の宗教においてもその構造はそう変わらない。

ただ大乗仏教はちょっと違う。

大乗仏教においては阿弥陀如来とか大日如来とか観世音菩薩とか不動明王とか、そういう「人格的な」諸仏を立てるのだけれど、実際にはそれらは我々の心身の状態を象徴化したものである。それをたとえば五位七十五法あるいは百法などとカテゴリー化したダルマ体系として表示もできるわけだけれど、そういう立て方においては、ややもすると法を客観視してしまい、対象化した二元論に陥ってしまいかねない。アビダルマ(「対法」)の問題点はそこにある。

そうではなく、対象というのはかならず主体とされる側の存在を待ってはじめてあり得る、また主体も対象を待ってはじめて主体として認知されうる状態が成立するのであるから、ダルマというのは静的で客観的なものではなく、必ずこのワタクシの認識と不離の流動的でダイナミックな働きにおいてのみ、それは成り立っている。

この構造を実践的な側面から観想の前提とした場合、ダルマが人格的で相互双入的なものとして表徴されてくるのは蓋し当然であり、仏身論が時代とともに多様になるのは衒学的事態なわけではなく、観想の整理発展に沿った自然の流れであると言える。


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抜粋終わり

これからこういう仏教とか宗教的なことも書くつもり。

マボサクが「仏教の悪・弊害」とか書いているが、それは王陽明が「それは良知を彼らがよくないように使ったからさ」ってことで、何事もモラル・慈悲が肝心ってことと思う。


>大乗仏教においては阿弥陀如来とか大日如来とか観世音菩薩とか不動明王とか、そういう「人格的な」諸仏を立てるのだけれど、実際にはそれらは我々の心身の状態を象徴化したものである。

>そうではなく、対象というのはかならず主体とされる側の存在を待ってはじめてあり得る、また主体も対象を待ってはじめて主体として認知されうる状態が成立するのであるから、ダルマというのは静的で客観的なものではなく、必ずこのワタクシの認識と不離の流動的でダイナミックな働きにおいてのみ、それは成り立っている。

>この構造を実践的な側面から観想の前提とした場合、ダルマが人格的で相互双入的なものとして表徴されてくるのは蓋し当然であり、仏身論が時代とともに多様になるのは衒学的事態なわけではなく、観想の整理発展に沿った自然の流れであると言える。


昨夜、ふと白衣観音経の経本を終わりの方にある「高王観音経の功徳・ご利益集」を見てみた。

結構不妊症に悩む女性が子供を得られたとか書いてある。

また普通に病気平癒がある。

まあ妄想なり偶然とも言い得るが、そもそも我々の記憶・知能ってのは、脳のシステムでの連絡機能のラインの違い・差を組み合わせてそれが成っているという事らしい。

記憶という情報もそうらしく、現在「ハードディスク」とかで記録を保存するのも似た原理を使っているようで。数字なり文字の連絡を個体にぶち込んで記憶して、それを読み取って、その数字・文字の連絡を読み取って、画像・音楽を再現する。

で、仮説として、「この世のすべてが、一種のハードディスク」で「同時にそれを稼働する・それで稼働するパソコン・家電」と私は思っている。

で、仮に「不動明王」なり「観音菩薩」という回路で起きる力・物事があってもいいのではないのか。
それが別の形で「ミカエル」とか「聖母マリア」とか「西王母」とか別の故障もあったと思っている。
「観音菩薩」{仮称}の一種の「愛の回路」がこの世に「霊性」と言わんでも、厳然とモノに・心に・世にある。という仮説も可能であると思う。
また、それは物質にも回路が通っているのだから人間にも、あなたも私も、その回路を持っているORその回路の中に存在しているわけです。
老子は「道は慈悲をもってそれを守る」という。ので大間違いを言っているのではないと思う。

古人は、釈迦とか悟ったりそれに近い人たちはもっと明確にわかっていた・確実に私以上により手落ちなく。
が技術の発展があって、こういう発想で仮説できるようになったのかもしれません。

とはいえ、「観音菩薩~回路・原理説」も少し問題で、これを「実体がある」と思ってはいけない。

そもそも仏教は「諸行無常」で恒常的なものなど無い。という。また実体があれば、それは無礙で自在な働きはしない。

孫子に言う
「故に兵形の極みは、無形である。
無形なれば如何なる間者も窺うを得ず、如何なる知者も謀るを得ず。
敵の形に因りてその勝ちを敵に得るも、敵はその所以を知らず。
人は皆な我が勝ちたる所以の形は知るも、吾が勝ちを制する所以の形を知ること無し。
故に戦勝に一定の形無く、敵の形に因りて無究に応ずるのである。」

というように、わかるのは如来・菩薩だけでは、我々凡夫はその観音の働いた跡形なり機能のしくみなどわからんのである。
ただ「戦争に勝つ」ですら、「凡人にはわからん」のである。奇跡とも思えるよなことは人間の尋常の知恵にはわからんと思えます。
ただ、「観音さんの力=観音菩薩回路・とか言うのが働いたらしい」ことしかわからんのです。

むろん、マボサクのいうように、さらに歴史の中に誤用も沢山もあり。また現状も隠れて実地にそれを悪用しているのも確認できるが。

江原という芸人が「念彼観音力」とか言っているのが、近々のその例かな。参考

だが、そもそも科学も正しい知見とモラルで使えば、大過なく、人に世に善用できる。

そもそもこの手の「力」俗にいう「加持祈祷」とかの力も、モラルと「正しい知見」をもってすれば、奇跡的なことが起きる。といっても、厳密にいうとこの世にある正常な力を正常に用いただけでだが、よく認識できないので「奇跡」というしかないわけで。



なんなら、まずは心経とか観音経・あるいは観音経秘鍵を唱えてみたらどうでしょうか。

まあ個々人の適・不適があるけど、一度読誦したくらいで、悪いことにはならないと思います。


まあ、仮説ですけど「あなたも私も観音様」ですから。




お読みくださりありがとうございます。
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