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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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アバンギャルド精神世界 より

上記文抜粋
・・・・・・・
終北国のこと-2


桃源郷の暮らしぶり


列子湯問篇の終北国の続き。終北国とは中国の地上天国のことであり、桃源郷のことである。

『人々の性質が素直で外物に従い、競わず争わず心が柔軟で身体はしなやか、驕らず忌み嫌わず、老いも若きも一緒に同居して、君臣の別もなく、男女は雑居して遊び、結婚も媒酌もない。

水辺に住んで耕作したりしないが、風土気温が温和なので、布も織らず服を着ることもなく、病気もなく若死にもなく百歳で死ぬので、人口は増えていく。嬉しく楽しいことだけなので、病気や老化での耄碌、哀しみ苦しみはない。音楽を好むのがこの土地の風俗で、一緒に歌を歌い合い、一日中曲の止むことがない。

飢えたり倦きたりすれば、神フン(サンズイに糞)の水を飲む。すると体力も気力も回復するが飲み過ぎると酔って、10日過ぎないと醒めない。神フン(サンズイに糞)の水で沐浴もして、肌つやがあり、香気は10日も残っている。』

これは、中国の千年王国だが、その人々が裸体で暮らすことを面妖に思う人もいるだろう。ところが、出口王仁三郎の説くとおり、人は裸体で生れて裸体で天国に復活する。霊界物語でも第一天国に住む天人達は真裸体である。(上天国=第一天国、中間=第二天国、最下=第三天国)

なお、この地上天国では人間は老いるが、出口王仁三郎は、天人五衰を一部否定している。
『天国の団体にある天人は、何れも男子なれば現界人の三十才前後、女子なれば二十才前後の若い姿である。この故は現界人の肉体は物質界の法則に由つて、年々に老衰して頭に白雪を頂き、身体に皺の寄るものであるが、人間の霊魂や情動は不老不死であつて、どこまでも変らないものだから、精霊界の天人は年が寄つても、姿は変じない。

 故に、現界において八九十才にて死んだ人間も、精霊界の天国へ復活した後は、その強壮な霊魂のままで居るのだから、決して老衰するといふことは無い。天人にも五衰といふ説があるが、それは決して天人の事ではない、霊界の八衢に彷徨してゐる中有界の人間の事である。』
(霊界物語第20巻如意宝珠未 霊の礎(六)から引用)

終北国は、天国の天人の社会生活をモデルとしているが、微妙に人間らしいところを残している。この話をよしとする人も感心しない人もいるだろうが、列子では、この話に続いて、斉の名臣管仲が桓公に終北国に行くことを勧めたのだが、別の家老がこれを諫めるのに対し管仲は、家老に終北国の価値などわかるものではないとバッサリ切り捨てている。

無用の用がわかる人だけどうぞというオチである。


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・・・・・・・・
抜粋終わり



同じく より

上記文抜粋
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社会的成功ほど失敗する


◎人生の安物買い

この貧富の差が大きく、子供の貧困6割、非正規就業4割の下層が半数を占める時代に無用こそ真の用であることを理解させるのはなかなかむずかしい。千利休らが茶道具の値をつり上げて高く見せたのは、畢竟失敗だった。天下人秀吉に侘び数寄の無用の用を見せたのは、大成功だったが、後継者たちは軒並み茶道具の値の高さに目を奪われたきらいがある。

久松真一が茶道の徳を格調高く説明してみせたが、そんなに綺麗に説明できるものなら、世の中の茶の湯者はもっと増えていよう。

前世に荘子だったOSHOバグワンが荘子を語る。

『まわりを見まわしてごらん
成功した人々を見てみるがいい
政治家やら財産家、大実業家たちを
彼らにはどんなことが起こっているね?
彼らの所有している物を見るんじゃない
彼らそのものを直接見なさい

なぜなら物を見てしまったら欺かれる
物は胃カイヨウにならないし
車は心ぞう発作にもおそわれない
邸宅は入院することもない

だから物を見てはならない
見たらだまされる
人を見なさい

あらゆる所有物を取り除いたあとの
その人そのものを直接見るがいい
そうしたらあなたはそこに貧しさを感じるだろう
そうなったら乞食でさえ金持に見える
そうなったら、〈生〉に関するかぎり
貧乏人でさえずっと豊かであるかもしれない

成功は失敗する
成功ほど失敗するものはほかにない
なぜなら成功する人は〈生〉をつかまえそこなうからだ
あらゆるものをつかまえそこなうからだ

成功する人は実際安物買いをする
ニセ物のために本物を投げ捨て
浜辺にころがる色のついた小石のために
内なるダイヤモンドを捨ててしまう
小石を集めてダイヤモンドを失うのだ
金持とは失う人、成功者とは失敗者のことだ

だが、あなたがたは野心の眼で見るから
所有している物のほうを見る
政治家を見ないでその地位を見る
その大臣職を、その権力を見る

あなたはそこに坐っているまったく無力な
すべてを取り逃がしたその人をけっして見ない
歓びが一瞬とて垣間見ることすらないその人を・・・・
彼は権力を買った
が、その買物のなかで自分を失った
そしてそれはすべて安物買いなのだ』
(虚空の舟(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社 P68-69から引用)


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・・・・・・・・
抜粋終わり


私も荘子が好きだ・・・・。



同じく より

上記文抜粋
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ポケモンGO


◎今風の伊勢踊り、おかげまいり、ええじゃないか

ポケモンGOで、人々がスマホ片手に市街をうろうろしている。

日本には、古来伊勢踊り、おかげまいり、ええじゃないかと民衆が街頭に出て、表面的な宗教的興奮に誘われて、その土地で踊ったり、伊勢まで遊行したりと、しばしば大ムーブメントを形成した。

そのきっかけは神札が天から降るというものが多いが、目的を持って人が事前に神札をばらまいたというところだろう。中国でも神札が天から降ったという奇瑞は時々記録にあるが、神札が降っただけで世の中が改善するならば、印刷屋さんは世直し神としてあがめられちゃうだろう。

伊勢踊り:伊勢神宮のご託宣や奇瑞があった時に、人々が群れをなして乱舞する現象。江戸時代にもそれ以前にも見られた。

おかげまいり:江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣した。

ええじゃないか:慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊ったもの。

今回は、事前に現代の神札ポケモンGOがダウンロードでばら撒かれ、人が乱舞している。

ポケモンGOで、事実上のゾンビが街を闊歩するのだろうが、それ自体白でも黒でもないが、後で見れば、冥想できる短い余暇時間をそれに宛てていたということになるのだろう。あの手この手で自分に向き合う時間を作らせまいと、時代はじたばたあがく。人と神のかい離は広がる。


・・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

老子20章
http://www.eonet.ne.jp/~chaos-noah/tao/tao_20.htm

>衆人熙熙(きき)として
 太牢(たいろう)を享(う)くるがごとく
 春台に登るがごとし


>人々は、嬉々として華やいでいる。まるで、春の祭りのご馳走のもてなしを享け
 るかの様に、また、春台に登って、花見でもしているかの様に。


どころでない享楽・狂気のポケモンGO


私は一人、母なる道に抱かれるのを尊ぶ・・・。


お読みくださりありがとうございます。
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