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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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評論家 山崎元 のブログ

上記文抜粋
・・・・・・・・

「今回、病室には『外』の子もやってきました。『外』の子と言っても、私の作ったご飯を食べたり一緒に旅行したことがある子がほとんどです。一人だけあまり話す機会がなかった子もいましたが、心根のいいことはすぐにわかりました。
 秀行の病床の傍ら、母の違う子供達が集って過ごした時間は穏やかなものでした」
(「文藝春秋」7月号291ページ)

 これはなかなか達成できる状況ではない。たとえば、田中角栄元首相の愛人が書いた手記を読むと、角栄さんが「母の違う子供達」が仲良くしてくれることをいかに強く望んだかが分かるが、あの日本を動かした角さんといえども、これはかなわぬ夢だった。

・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

へ~

角栄さんでもできなかったことを、秀行先生はできていたのか・・・・

そういえば、文叔さん家もそうだったよな・・。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/49.htm 

上記文抜粋
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郭聖通と劉秀の関係
 陰麗華を押しのけて皇后となったのが郭聖通である。郭聖通とはどんな女性だったのか?
 郭聖通の母は郭主と呼ばれ、帝王の血筋をひき、母としての徳を備えた賢い女性であったらしい。また、郭氏は多く劉秀に取り立てられたが、それぞれ謙虚な優れた人物として知られている。このことは郭聖通もまた教養のある優れた女性であったことを思わせる。
 郭聖通にも五人の男児があり、その寵愛期間のほとんどは陰麗華と重なっている。子どもの出産時期もほとんど重複しており、郭聖通から陰麗華へと交代する様子は読みとれない。何か日替わりで二人をまったく平等に待遇しようとしたのではないかとすら思わせる。二人は男児の数も同じだが、また驚くべきことに郭聖通の皇后在位期間(西暦26~41)と陰麗華の皇后在位期間(西暦42~57)も共に十六年とぴったり同じである。平等にも程がある!
 明帝の時代の記録として陰氏と郭氏はすべてにおいて平等に待遇された(禮待陰、郭,每事必均)とある。これはおそらく劉秀の方針を引き継いだものと考えられ、劉秀はすべてにおいて郭聖通と陰麗華を平等に待遇しようとしたと考えられる。
郭聖通は政略結婚で劉秀の妻となった。兵力十万以上の勢力を持つ劉揚を味方にするための婚姻政略である。
 しかし建武二年(西暦26年)一月、郭聖通の背後勢力である劉揚は謀反により殺される。そしてその五ヶ月後、建武二年(西暦26年)六月に、郭聖通が皇后に決まる。だからもしも劉秀が郭聖通を嫌っていたのなら、このときすでに皇后にする理由はないのである。また息子だけで五人いることから、劉秀は郭聖通も好きだったことは間違いないだろう。
 歴史上の皇帝は寵愛する女性がたくさんのいることが多いが、子どもはたいてい一人か二人である。妊娠すれば飽きてしまうわけだ。
 しかし、息子だけで五人というのは、嫌いであったり興味がなかったりしてできる人数ではない。劉秀は陰麗華が一番好きだが、郭聖通も愛していたと考えねばなるまい。

・・中略・・・

だがこの事件は重大なこと生み出してしまった。
 さらに皇后廃立についての詔の内容を見てみよう。郭聖通は自分以外が生んだ子どもとうまく打ち解けたり教え育てることができなかった(不能撫順它子,訓長異室)という。陰麗華や許氏の子どもとの関係に問題が生じたということだ。
 劉秀は病み上がりであり、南陽への里帰りにあたり家庭のことを皇后郭聖通に任せただろう。おそらく郭聖通はこの南陽で、郭氏の皇子と陰氏、許氏の皇子に差を付けて見せたのではないか。劉秀はすべての子どもを全く平等に待遇していたのだが、これに不満だった郭聖通はこの機をとらえて、正嫡と庶子の差をはっきりさせようとしたのだと考えられる。
 このことが寛容な劉秀の怒りを買った。


・・・・中略・・・・

 郭聖通の死後四年、劉秀は泰山封禅の儀式を行う。このとき東海王劉彊も随行している。これも劉秀の郭聖通への気持ちを表したものであろう。
 
郭氏と陰氏に対立はあったか
 郭氏と陰氏はともに繁栄して特に対立もなかったようだ。明帝劉陽と廃された皇太子劉彊は仲がよく、大臣に主従の別をはっきりするように叱られたことすらある。また明帝の即位に当たり、陰麗華との三男劉荊が、郭聖通との長男である廃皇太子劉彊に皇位をねらうようにそそのかす事件(未遂に終わる)こともあった。郭聖通と陰麗華に対立があったのなら、母親の心理に敏感な息子たちがこんな反応をするとは考えられない。

・・・・・中略・・・・

また劉秀の娘は五人いるが、その四女劉綬は陰麗華の弟陰識の子の陰豊に嫁ぎ、五女劉礼劉は郭聖通の弟郭況の子の郭璜に嫁いだ。これは明らかに劉綬は郭聖通の娘であるから陰氏に嫁ぎ、劉礼劉は陰麗華の娘であるから郭氏へと嫁いだということである。郭氏と陰氏の関係が良好であったことを示している。
 よくある美人の新しい女性が出てきて皇后を追い落とす事件の場合、皇后は殺されたりひどい目に合うし、その家族もまとめて失脚するものである。ところが、この事件にはそうした要素は全くない。誰も得したり損したりしていないのである。
 

・・・・中略・・・

さらに陰麗華の行動を見ると、劉秀の意志に反する行為が多く記録されている。皇后になるように言われたのに拒絶したこと、罪に問われた馬援の娘を寵愛して身辺に置いたこと、妊娠したとき強引に遠征軍に従軍してついて行って軍陣の中で出産したことなど。
 さらに父の死に言及するたび涙したことなどを考えると、陰麗華は直情的で自分が正しいと思ったことは相手が皇帝であろうと一切譲らない頑固な女性であると考えられる。
 これに少女の頃から美人として知られていたことを合計すると、陰麗華とはツンデレ美少女であるということになろう!
 後に皇后になってからも郭聖通と確執を生まず、子供たちにもそう感じさせなかったところなど、陰麗華には何か神聖なものを持っていたと感じさせる。陰麗華は死後、光烈皇后と謚(おくりな)される。歴史上初の謚を持つ女性となった。


・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


藤沢秀行には、もとさん。劉秀には、陰麗華。

家族円満には、変わり者で偉大な女性が要でドンって居た。ってわけですよね。


お読みくださりありがとうございます。
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