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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
福田晃市氏 訳 出典サイト 中国兵法 より

李衛公問対 中巻

(1)
 太宗が言いました。
「わしはいろんな兵法書をみてきたが、『孫子』以上のものはなく、その『孫子』十三篇の要点は虚実、すなわち強いところと弱いところを把握することにつきる。そもそも用兵は、その虚実の運用についてわかっていれば、つねに勝てる。
 いまの将軍たちは、ただ『敵の強いところを避け、敵の弱いところを攻める』と言えるだけで、その教えを実戦においてきちんと使いこなせる者は少ない。だからこそ、主導権を握れず、敵に主導権を握られてしまうのではないだろうか。そのほうには、将軍たちと虚実の要点について語りあい、将軍たちに虚実をうまく使いこなすコツをわからせてもらいたいのだが、どうだ?」
 李靖が答えました。
「①まず奇兵と正兵をうまく使いこなして戦い方に無限の変化を出し、敵をほんろうする戦法について教え、②その後で敵の強いところと弱いところを正しく把握し、それに応じて戦い方を変えることの大切さを話します。これがベストです。今の将軍たちの多くは、奇兵が正兵となり、正兵を奇兵にする戦法について知りません。それなのに、どうして敵が弱そうに見えて本当は強かったり、強そうに見えて本当は弱かったりすることを見ぬけるでしょうか」
 太宗が言いました。
「『孫子』に『①敵がどう動くかを考えて、どうすれば成功し、どうすれば失敗するかを知る。②敵を挑発して、どんなときに動き、どんなときに止まるかを知る。③敵がどんな編成であるかをさぐって、どこで戦うのが不利で、どこで戦うのが有利かを知る。④敵をためしにかるく攻撃して、どこの兵力が充実していて、どこの兵力が虚弱であるかを知る』と述べている。これはつまり、『奇兵と正兵をうまく運用できるかどうかは、こちらの実力にかかっており、強いところと弱いところをきちんと把握できるかどうかは、敵の態勢にかかっている』ということか?」
 李靖が答えました。
「奇兵と正兵の運用は、敵の強いところと弱いところに対処するためのものです。もし敵が強ければ、こちらは必ず正兵を用います。反対に、もし敵が弱ければ、こちらは必ず奇兵を用います。かりにも将軍たる者が奇兵と正兵をうまく使いこなす方法を知らなければ、たとえ敵の強いところと弱いところがわかったとしても、どうして敵をうまく誘導して破ることができるでしょうか。わたくしは、陛下のご下命ですが、ただ奇兵と正兵をうまく使いこなす方法を将軍たちに教えようと思います。これについてわかれば、強いところと弱いところを把握することについても、おのずとわかるものですから」
 太宗が言いました。
「奇兵を正兵にするとは、敵にこちらが奇兵を用いて戦うと思われたなら、こちらは逆に正兵の戦法を用いて攻撃するということである。(正兵の戦法とは、①あるていど進んだら、いったん態勢をととのえなおし、②あるていど戦ったら、いったん態勢をととのえなおし、③こちらの利益になるからといって、不用意にそれにとびつかないようにし、④わざと敵が退却しはじめた場合には、それを考えもなしに追わないようにし、⑤進攻するときにはあわてず、⑥撤退するときにはあせらず、⑦逃げ道をふさがれても陣形をくずさず、⑧分散しても全体のまとまりをなくさないことである)。
 また、正兵を奇兵にするとは、敵にこちらが正兵を用いて戦うと思われたなら、こちらは逆に奇兵の戦法を用いて戦うということである。(奇兵の戦法とは、①いきなり敵前にあらわれ驚かし、いきなり背後をふさぎ、いきなり左から突撃し、いきなり右から攻撃したり、②雷のように大きなときの声をあげ、風のようにすばやく動き、雷鳴が轟くように激しく進み、雷撃がうつように強く攻めたりして、敵をほんろうすることである)。
 このように敵をつねに弱い立場に立たせ、こちらが奇兵を用いるのか、それとも正兵を用いるのかをわからなくさせれば、こちらの軍勢はつねに強くなって勝てる。そのほうは、この方法を将軍たちに伝授して、よくわからせてほしい」
 李靖が答えました。
「兵法書のいろんな言葉をまとめてみますに、その要点は『相手をコントロールし、相手にコントロールされないようにする』ということにすぎません。わたくしは、この方法を将軍たちに教えようと思います」

(2)
 太宗が言いました。
「わしは今、瑶池に都督を置いて、それを安西地方(西域)の都護府に管轄させている。そこには中国人の将兵と異民族の将兵がいるわけだが、彼らをどのようにあつかえばよいだろうか?」
 李靖が答えました。
「天は人を生むにあたり、異民族と中国人を区別していません。頭は丸いし、足はまっすぐで、はらが減ると食べ、のどが渇くと飲むというように、異民族であれ、中国人であれ、人はだれしも基本的なつくりは同じす。ただ中国周辺の異民族は、荒漠たる大地に暮らしており、狩猟をして生活しています。このため、つねに戦闘の訓練をしているようなかっこうになり、結果、戦闘がうまくなるのです。もしこちらが、恩愛や信義を重んじて彼らを大事にあつかい、衣服や食料を援助して彼らを救済すれば、だれもが同胞のようになるでしょう。
 陛下は今、すでに安西地方に都護府を置かれ、そこの治安を安定させておられます。つきましては、そこに駐留している中国人からなる辺境方面軍を内地に帰還させ、その食料費を節約していただきたいと思います。これが兵法家の言う『力を保つ方法』です。そして、現地の異民族のことがよくわかっている中国人の司令官を選んで、安西地方の各基地を守らせます。こうすれば、そこの治安を長く維持することができます。そして、なにか緊急事態が起きたときには、中国人部隊を出動させます」
 太宗が言いました。
「その『力を保つ方法』について教えてくれ」
 李靖が答えました。
「これにつきましては、『孫子』にそのあらましが書かれています。敵と戦うにあたり、『①こちらは戦場の近くにいて、遠くからやってくる敵を待ちうけ、②こちらは休養して力をたくわえて、敵が疲れるのを待ちうけ、③こちらは食料を豊富にして、敵が飢えるのを待ちうける』というのが、それです。
 用兵のうまい人は、この三つの内容をおしはかって、さらに六つにします。それは、敵と戦うにあたり、①こちらはワナをしいて、敵がひっかかるのを待ち、②こちらは冷静にして、敵がさわがしくなるのを待ち、③こちらは慎重にして、敵が軽率になるのを待ち、④こちらは気をひきしめて、敵がだらけるのを待ち、⑤こちらはきちんとして、敵が乱れるのを待ち、⑥こちらはよく準備して、敵が攻めてくるのを待つ、以上の六つです。これに反するなら、力がたりなくなり、『力を保つ方法』からはずれます。ましてや、どうして敵兵と戦うことができるでしょうか」
 太宗が言いました。
「最近の『孫子』を学ぶ者たちは、ただその文章を暗誦できるだけで、それを実際に活用できる者は少ない。この『力を保つ方法』は、ぜひ将軍たちに教えてもらいたい」

(3)
 太宗が言いました。
「わしと共に戦ってきた将軍や兵士たちも、いまや年をとり、そのほとんど全員が退役してしまった。今の軍隊は、新しく入ってきた将兵ばかりで、豊かな実戦経験がない。そんな将兵たちを教練したいのだが、どのようにすればよいか?」
 李靖が言いました。
「わたくしは、軍人を教練するときはいつも三段階にわけて行いました。①軍隊編成の最少単位である五人グループ、いわゆる『伍』を組織する方法として『伍法』がありますが、その『伍法』を必ずまず教え、五人に一つのグループを組ませ、グループで協力して行動するようにさせてから、それを将校にあずけます。これが第一段階です。②将校のもとで、五人グループから五十人グループにし、さらに五十人グループから五百人グループにして、より多くの人数で協力して行動できるようにします。これが第二段階です。③それができましたら、将校のひきいる五百人の部隊を複数、副将の指揮下にいれ、全体でいろんな陣形を組む訓練をさせます。これが第三段階です。
 最高指揮官たる将軍は、この三段階の教練が終われば、副将たちが教練をまかされていた部隊をすべて集めて合同で軍事演習を行い、教練のできぐあいをみます。①陣形、隊列、装備、服装などがきちんとしているかをチェックし、②どの部隊が奇兵に向いていて、どの部隊が正兵に向いているかを見分け、③軍人たちをいましめるには刑罰を用いて有罪者を処罰します。以上の教練を終わり、陛下に閲兵していただくときには、どんなご命令もこなせるようになっておりましょう」
 太宗が言いました。
「『伍法』については、いろんな説があるが、そのうちどれがもっとも重要なものなのか?」
 李靖が答えました。
「①『春秋左氏伝』には、『戦車のうしろに五人の歩兵隊をおき、さらに戦車の両隣にもそれぞれ五人の歩兵隊をおく。そして、戦闘になったときは、歩兵隊は戦車と戦車の間で戦って戦車を補助する。こういった戦法を使って、鄭伯(鄭国の領主)は桓王(周王朝の王)に勝利した』という話があります。②また、『司馬法』には、『五人が一つのグループをつくる』と書いてあります。③さらに、『尉繚子』には、『五人が一つのグループとなり、その名簿を将軍の秘書に提出する。そして、戦って失われた五人グループの数が敵より少ない場合には賞するが、敵より多い場合は罰する』と述べてあります。④最後に、漢王朝には『尺籍伍符』の制度があり、それによると『メンバーの功績を尺籍という小さな板に記し、グループ間の連絡には伍符という小さな板を用いる』となっていましたが、この制度は板のかわりに紙が用いられるようになってから廃れました。
 わたくしが思いますに、歩兵隊の人数は五人から二十五人に増え、さらに二十五人から七十五人に増えて、最終的には戦車一輌ごとに歩兵七十二と重装歩兵三人がつきしたがう制度ができあがったのでしょう。
 戦車ではなく騎馬で戦う場合には、騎兵八騎が歩兵二十五人に相当します。これが『司馬法』に言う『使う兵器の種類に応じて戦い方が異なる』ということです。
 以上のように、あらゆる兵法家が『伍法』を重視しています。歩兵隊の基本となるのは五人のグループ(伍)で、これは『小列』と呼ばれます。この『小列』を五つまとめると、二十五人のグループができあがり、これは『大列』と呼ばれます。この『大列』を三つまとめると、七十五人のグループができあがり、これは『参列』と呼ばれます。この『参列』を五つまとめると、三百七十五人の部隊ができあがるわけですが、そのうち三百人が正兵となり、六十人が奇兵となり、残りの十五人は重装歩兵です。さらに正兵三百人を半分にわけて百五十人の正兵を二つ編成し、奇兵六十人を半分にわけて三十人の奇兵を二つ編成して、部隊の左右に同数の正兵と奇兵がいるようにします。以上は司馬穰苴の『五人が一伍となり、十人が一隊となる』という言葉にもとづいたもので、今日まで受け継がれている重要な方法です」

(4)
 太宗が言いました。
「わしは李世勣と兵法について語りあったのだが、李世勣の言うことは、そのほうの言うこととほとんど同じであった。ただ李世勣の兵法がなにを根拠にしているのかは、まったくわからなかった。そのほうが考案した『六花陣法』は、なにを根拠にした戦法なのか?」
 李靖が答えました。
「わたくしの『六花陣法』は、諸葛亮の『八陣法』をもとにしたものです。大きな軍陣のなかに小さな軍陣があり、大きな軍営のなかに小さな軍営があり、八つの戦隊がつながって中軍を囲むように折れ曲がり、前後左右が対称になっているのが、『八陣法』による陣法です。
 わたくしの考案しました『六花陣法』は、この『八陣法』にもとづいたものですので、外側の六つの戦隊は方陣で、それらの戦隊に囲まれた内側の中軍は円陣で、うえから見るとまるで花びらのようなかたちをしています。ですから、『六花陣法』と呼ぶのです」
 太宗が質問しました。
「そのほうの言う『内側は円陣で、外側は方陣』というのは、どういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「①陣形が方形になるのは、歩調をあわせるからですし、②陣形が円形になるのは、奇策をくりだすからです。①方形にすることは、隊列をととのえる手段ですし、②円形にすることは、動きを円滑にする手段です。そこで、①隊列は、大地のように安定していなければならないので、このように方形となり、②行動は、天空のように連動していなければならないので、このような円形となるのです。こうして隊列が定まり、行動がととのえば、陣形が臨機応変に激しく変動しても乱れることはありません。この『六花陣法』は、中軍をとりかこむ戦隊の数が八から六になっているわけですが、しかし諸葛亮の『八陣法』から逸脱したものではありません」

(5)
 太宗が言いました。
「①外側の方陣は、歩調をととのえるのに使われ、②内側の円陣は、用兵をスムーズにするのに使われる。①歩調をととのえるには、足の運び方を教え、②用兵をスムーズにするには、手の使い方を教える。きちんと足が運べ、あらゆる手が使えるなら、ほぼ十分と言えるか?」
 李靖が言いました。
「『呉子』に『絶たれても離れない。退いても散らない』とありますが、これが足の運び方です。軍人を教練するのは、ちょうど将棋盤のうえにコマをならべるようなもので、たてよこに線がひいてなければ、どこにコマをおいてよいかわからず、勝負になりません。さらに、『孫子』に『程度から物量がわりだされ、物量から規模がわりだされ、規模から優劣がわりだされ、優劣から勝算がわりだされる。勝てる軍隊は、てんびんで重いものを軽いものと比べるように有利であり、負ける軍隊は、てんびんで軽いものを重いものと比べるように不利である』とありますが、すべて地形や地理をはかり考えることが基本となっています」
 太宗が言いました。
「『孫子』の言葉は、含蓄の深いものだな。将軍たる者、地理が遠いか、近いか、また地形が広いか、狭いかをはかり考えなければ、どうして軍隊をきちんと運用できようか」
 李靖が言いました。
「平凡な将軍は、そのへんの節目があまりわかっていません。『孫子』に『戦いのうまい人は、①勢いは強いことを望み、②動きは速いことを望む。①勢いが強いとは、いっぱいに引きしぼった弓のように、いつでも戦えることだ。②動きが速いとは、ねらいを定めて矢を射るように、時機をのがさないことだ』とあります。
 わたくしは、この『勢いは強く、動きは速くする戦法』を研究し、こんな戦法を考案しました。部隊を配置するにあたり、各隊の間に十歩の間隔をあけ、後方部隊は前方部隊との間に二十歩の間隔をあけ、一隊ごとに、さらに歩兵と騎兵からなる先鋒隊を一つ配置します。前進は、五十歩を標準にします。笛が鳴ったら、各隊はすべて分散して配置につきますが、十歩以上も間があかないようにします。そして、四番目の笛が鳴ったら、武器を手に持ち、突撃の体勢をとります。ここにおいて太鼓が鳴ったら、三たび大声をあげ、三たび突撃します。三十歩くらい突撃し、五十歩くらいまで進んだら、止まって敵の新たな動きに備えます。そこへ騎馬隊がいきなりうしろから飛び出し、これまた五十歩くらい突進したら、いったん停止して備えます。このように正兵を先に使い、奇兵を後に使います。ここで敵の動きを観察して、さらに太鼓が鳴ったら、今度は先に奇兵を使い、後で正兵を使い、敵の来襲に備え、敵のスキをうかがって敵の弱いところを攻めます。以上が『六花陣法』であり、そのあらましはこのとおりです」

(6)
 太宗が質問しました。
「曹操の書いた『新書』に『陣をしき、敵と対するには、必ずまず標識を立て、将校に兵士らを指揮させて、それぞれ標識を基準にして配置につかせる。そして、ある部隊が敵の攻撃を受けたなら、その他の部隊で、救援に向かわない者は処罰する』とあるが、これはどういった戦法なのか?」
 李靖が答えました。
「敵と向かいあっているときに標識を立てるのは、まちがいです。標識を立て、それを基準にして兵士たちを配置につかせるのは、戦闘訓練をするときの方法にすぎません。むかしの用兵のうまかった人は、教練するときはただ正攻法を教練するだけで、奇策を教練しませんでした。なぜなら、奇策は、戦況に応じて臨機応変にくりだされるもので、一定のかたちであらかじめ教えることができないからです。こうした教練をした結果、むかしの用兵のうまかった人は、あたかも羊の群れをおうかのように、兵士たちを、たとえ彼らが行き先を知らなくても、前進するにしろ、後退するにしろ、整然と目的の方向へと動かせました。曹操は、自信家で、負けず嫌いでした。それで当時、曹操の『新書』を読んでいた曹操の下にいた諸侯は、あえてその欠点を指摘しなかったのです。敵と出会ってから標識を立て、兵士たちを配置につかせるのでは、遅すぎます。
 わたくしは、陛下のつくられた『破陣楽舞』を見させていただきました。前方には四つの旗がたなびき、後方には八つの長い旗がかかげられ、舞う人は左右に折れたり、回転したり、ゆっくり歩いたり、急いで走ったりし、鐘を鳴らすにも、太鼓をたたくにも、それぞれにきちんとしたリズムがありました。そのときわたくしは、この舞踊はまさに『八陣図法』の調和のとれた戦い方を模したものにちがいないと思いました。しかし、人々は、音楽のあでやかさ、舞踏のはでやかさに気をとられるばかりで、そこに戦法が隠されていることに気づいていません」
 太宗が言いました。
「むかし漢王朝初代皇帝の劉邦は、天下を平定したあと、『大風歌』をつくったが、その一節に『どうやって勇士を得て、外敵から国を守ろうか』とある。思うに、兵法は言うなれば心から心へと伝えられるもので、言葉で伝えることのできないものだ。わしは『破陣楽舞』をつくったが、そのほうだけがそこにこめた意味についてわかってくれている。これで後世の人々にも、わしが『破陣楽舞』をたわむれにつくったのではないことを知ってもらえるだろう」

(7)
 太宗が言いました。
「東をあらわす青い旗、南をあらわす赤い旗、西をあらわす白い旗、北をあらわす黒い旗、中央をあらわす黄色い旗、これら五つの旗で指揮する部隊は、正兵か? また、長い旗や手旗をまじえて使い、そうして指揮する部隊は、奇兵か? さらに、各隊の人数は、分散したり、集合したりして変化するわけだが、このときどういう方法を使えば、適切な人数にすることができるのか?」
 李靖が答えました。
「わたくしは、むかしながらのやり方を参考にして使っています。三隊を集合させて一隊にするときには、旗どうしをよりそわせ、交差させません。五隊を集合させて一隊にするときには、二つの旗を交差させます。十隊を集合させて一隊にするときには、五つの旗すべてを交差させます。
 笛を鳴らして交差している五つの旗を離したときには、一隊が分散して、もとの十隊にもどります。同様に、交差している二つの旗を離したときには、一隊が分散して、もとの五隊にもどりますし、よりそっている旗を離したときには、一隊が分散して、もとの三隊にもどります。
 兵が分散しているときには、集合させるのが奇兵となりますし、兵が集合しているときには、分散させることが奇兵となります。このように、いくどかにわたる命令を受け、三たび分散して三たび集合し、もとの正兵にもどるわけですが、これが基本的な戦法である『八陣法』の教練となり、これによって適切に分散したり、集合したりできるようになります」
 太宗が言いました。
「すばらしい」

(8)
 太宗が質問しました。
「曹操は、戦騎(突撃する騎兵)、陥騎(突入する騎兵)、遊騎(遊撃する騎兵)という三種類の騎兵を使っていたが、今の騎兵と比べ、どこがどう違っているのか?」
 李靖が答えました。
「曹操の書いた『新書』に『戦騎は前にあり、陥騎はまん中にあり、遊騎はうしろにある』とありますが、これはただ単に騎馬隊を三つにわけて配置して、それぞれに名前をつけたにすぎず、そこに特別な意味はありません。
 だいたい騎兵八騎は、戦車に従っている歩兵二十四人に相当し、騎兵二十四騎は、戦車に従っている歩兵七十二人に相当します。これは、むかしながらの制度です。また、戦車に従っている歩兵にはつねに正攻法を教え、騎兵にはつねに奇襲を教えます。しかし、曹操の書いた『新書』では、騎兵を前、中、後の三つに分けるだけで、左右両軍についてなにも言っていません。これは、いくつかある部隊編成法のなかから一つだけをとりあげて言っているからにすぎません。
 後世の人たちは、このことがわからず、戦騎は必ず陥騎と遊騎の前にあるものだと思いこみましたが、これでは使い勝手がわるくなります。わたくしはこの方法を使いなれていますが、たとえば軍隊をターンさせるときには、前後を逆にして、後方の遊騎を先頭にし、前方の戦騎を後尾にします。そして、中央の陥騎は状況に応じて臨機応変に使います。これが曹操のやり方です」
 太宗は笑って言いました。
「多くの人間が曹操のために惑わされたというわけか」

(9)
 太宗が言いました。
「歩兵、騎兵、戦車の三つは、どれも基本的な使い方は同じだ。使いこなせるかどうかは、優秀な人材がいるかどうかにかかっているのか?」
 李靖が言いました。
「春秋時代、鄭伯の荘公が用いた『魚麗陣』という戦法をみてみますに、戦車を先頭にし、そのうしろに歩兵隊をつかせました。このときには戦車と歩兵だけを用いて、騎兵はいませんでした。そして、戦車の左右にも『左拒』『右拒』とよばれる歩兵隊がつきましたが、この『拒』という言葉が示すように、この部隊の編成は、敵の進撃を拒み防御するためのもので、奇襲をしかけて勝利するためのものではありませんでした。(この戦い方は、防御中心の戦い方です。)
 また、晋国の将軍であった荀呉が狄族を討伐したとき、戦車で戦うことをやめて歩兵で戦うことにしました。このときには、騎兵が多くいればいるほど有利となりました。なぜなら、このときは奇襲をしかけて勝利しようとしたのであり、ただ防御しようとしたわけではなかったからです。(この戦い方は、攻撃中心の戦い方です。)
 わたくしは両者をまとめて、攻守をともに用います。このときには戦車、歩兵、騎兵の三つを使うわけですが、騎兵一騎には人間三人分の力があるとみなし、戦車と騎兵がつりあい、歩兵と騎兵がつりあうようにします。戦車、歩兵、騎兵、これら三つの使い方は基本的に同じですが、それらを使いこなせるかどうかは指揮官の力量にかかっています。優秀な人が指揮すれば、敵は、我が戦車隊がどこから出没し、我が騎馬隊がどこから来襲し、我が歩兵隊がどこから攻撃してくるのか、まったくわかりません。このときの我が軍は、あたかも地の下に深くもぐっているかのように、とらえどころがありませんし、また、天の上から勢いよくふってくるかのように、さけようがありません。その知略や策謀はまさに人知をこえたものであり、はかり知れません。こういった作戦の展開の仕方は、陛下のもっとも得意とされるところで、わたくしにはこれ以上くわしくわかりません」

(10)
 太宗が質問しました。
「太公望の兵法書に、方形の陣をしき、一辺の長さを六百歩か、六十歩かにして、十二支をあしらった標識を立てるといったようなことが書いてあるが、これはどういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「陣をしくにあたり、辺の長さの合計が千二百歩になる正方形をつくり、それを九等分して、一つの大きな正方形のなかに九つの小さな正方形をつくります。その小さな正方形一つごとに、辺の長さの合計が二十歩ほどの四角い土地をそれぞれ兵士一人にわりあて、横は五歩ごとに兵士一人を配置し、縦は四歩ごとに兵士一人を配置します。このとき、小さな正方形一つにつき、五百人の兵士が配置されることになります。ただし、こういった五百人の部隊は、大きな正方形のなかの東、西、南、北、そして中央にある五つの小さな正方形にそれぞれ配置され、全部で二千五百人の部隊がつくられます。そして残り四つの、すみにある小さな正方形は、空き地にします。以上が、いわゆる『陣の間に陣をいれる』とういことです。
 周王朝の武王は、殷王朝の紂王を討伐するにあたり、勇敢な兵士にそれぞれ三千人の兵士を指揮させ、一つの陣ごとに六千人の兵士を配置し、そんな陣を五つ作って、あわせて三万人の軍隊を編成しました。これが太公望の言う『地面を区切って兵士を教練する方法』です。なお、前に『太公望は四万五千人の軍隊を使って紂王の七十万人の大軍に勝った』と言いましたが、実戦のときには諸侯の軍が加わっていたので、三万人より人数が多くなっていたのです」
 太宗が質問しました。
「そのほうの考案した『六花陣法』の場合、その規模はどうなっているのか?」
 李靖が答えました。
「陛下にご臨席たまわりましたうえで、軍事演習を行います場合、辺の長さの合計が千二百歩になる正方形をつくり、それを九等分して九つの小さな正方形をつくります。そして、その小さな正方形のうち、東側にある三つと西側にある三つのなかに、それぞれ戦隊を一隊ずつ配置します。戦隊の数は、全部で六つです。東側と西側の間にある、残り三つの小さな四角形は、空き地となります。そこは兵士を教練するための場所として使用します。
 わたくしはつねに、兵士三万人を教練するときには、一隊あたり五千人の戦隊を六つ編成しました。そして、そのなかの一隊には中軍としての訓練をさせ、残り五隊にはそれぞれ五つの陣形を組む訓練をさせます。五つの陣形とは、方陣、円陣、曲陣、直陣、鋭陣の五つです。このときの陣形を組む訓練の回数は、五つの戦隊がそれぞれ、五つある陣形の組み方を一つずつ訓練するわけですから、総計で二十五回となります」
 太宗が言いました。
「その五つの陣形と、いわゆる『五行陣』とは、どんな関係にあるのか?」
 李靖が答えました。
「もともと東の青、南の赤、西の白、北の黒、中央の黄色といった色にもとづいて名づけられたのが、木陣、火陣、土陣、金陣、水陣の五つ、すなわち『五行陣』にすぎません。いっぽう、方陣、円陣、曲陣、直陣、鋭陣の五つの陣形は、地形にもとづいて、そのように設定されました。およそ軍隊は、これら五つの陣形をふだんから訓練し、それに習熟していなければ、使い物にならず、敵とまともに戦えません。
 そもそも戦争とは、いかにして相手をだますかにかかっているものです。ですから、相手をだますため、むりやり木・火・土・金・水の五行の名を使って名づけ、あたかもなにか特別な意味があるかのように見せかけたのです。五行には、金が水を生じ、水が木を生じ、木が火を生じ、火が土を生じ、土が金を生じるとする相生の説と、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝つとする相克の説とがありますが、このことから、本当のところを知らない人は、たとえば『金陣から水陣が生まれるのだ』とか、『木陣を使えば土陣に勝てる』とか思いこみ、誤解し、作戦ミミスを起こします。これが『五行陣』の名を使ったねらいです。
 実際のところ、軍隊の動きは、あたかも水のようなものです。水は地形に応じていろいろとかたちを変えますが、軍隊もそれと同じで、地形に応じて陣形を変えるのです。以上が『五行陣』の意味です」

(11)
 太宗が言いました。
「李世勣は、牝牡、方円、伏兵などの戦法について述べているが、そういった戦法はむかしからあったのか?」
 李靖が答えました。
「牝牡とは、俗に言われてきた呼び名でして、いわゆる陰陽のことにすぎません。たとえば范蠡(越国の名臣)は、『後手にまわったら、守りを固めて力を蓄える(陰)。先手をとったら、勢いに乗って攻めたてる(陽)。敵の勢いを弱まらせ、こちらの力を強めて、形勢が逆転したところで敵を打ち倒す』と言っています。これが兵法家の用いる、陰陽という戦法の要点です。
 また、范蠡は『右側の既存部隊が牝となり、左側の増援部隊が牡となる。動くときを早くするか、それとも遅くするかは、天の時に従って決める』とも言っています。これは、『左に布陣するか、それとも右に布陣するか、また、早くに動くか、それとも遅くに動くかは、状況に応じて決める』ということで、いわゆる『奇兵と正兵を使い分けて戦い方に無限の変化を出すこと』にあたります。
 左右は、人にかかわる陰陽です。右が陰となり、左が陽となります。早い遅いは、天にかかわる陰陽です。早いことが陽となり、遅いことが陰になります。奇兵と正兵は、天と人とがともにかかわっている陰陽です。右、左、遅い、早いをまぜて使わず、分けたまま固定してしまえば、陰陽は意味がなくなり、牝牡のかたちも保てなくなります。
 ですから、敵をだましてワナにはめるには、奇兵を用いて敵を陽動するのであり、正兵がメインとなるわけではありません。また、敵に勝つには、正兵を用いて敵を攻撃するのであり、奇兵がメインとなるわけではありません。これが奇兵と正兵を使い分ける方法です。
 伏兵(敵の不意をつくために、敵の目につかないところにひそんでいる部隊)とは、ただ山や谷、ヤブや森林のなかに隠れる部隊のことだけを言うのではありません。正兵がまるで山のように重厚であり、奇兵がまるで雷のように敏速であって、敵はこちらの目の前にいても、こちらの奇兵がどこにいて、こちらの正兵がどこにいるのかがわからない、そういった軍隊のことを伏兵と言うのです。ここまでくると、もはやとらえどころがありません。
 以上、牝牡と伏兵について述べてまいりましたが、方円、すなわち方陣と円陣につきましては、まえに陣形の話題が出ましたときに、お話したとおりです」

(12)
 太宗が質問しました。
「竜、虎、鳥、蛇という四獣の名がつけられた四つの陣形は、さらに商、羽、徴、角という四音の名がつけられることもある。これらの陣形は、どんなものなのか?」
 李靖が言いました。
「それらは、ただ単に人をあざむくために、意味ありげな名前をつけているにすぎません」
 太宗が質問しました。
「そういったまぎらわしいものは、排除できるか?」
 李靖が答えました。
「それらの名前を残すことで、そういった類のまぎらわしいものを排除できます。もしそれらの名前を排除して用いなければ、人をあざむくための別な方法が新たにあらわれ、めんどうなことになります」
 太宗が質問しました。
「どういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「各隊に竜、虎、鳥、蛇という四獣の名前と、天、地、風、雲という称号をつけ、さらに商金、羽水、徴火、角木という四音の名前をそれらにつけ加えるわけですが、これらはすべて兵法家がむかしから用いてきた人をあざむくための方法です。これらを残せば、まぎらわしいものがよけいに増えるのを防げます。しかし、もしこれらの人をあざむく方法を排除すれば、欲ばりな人や愚かな人をうまく誘導して、こちらに有利な状況をつくりだす方法がなくなってしまします」
 太宗はしばらく考えてから言いました。
「そのほうは、このことを秘密にして、外にもらさないようにしてくれ」

(13)
 太宗が質問しました。
「『刑罰を重くし、法律を厳しくすれば、人にこちらを恐れさせ、敵を恐れなくさせることができる』という言葉があるが、わしはこれを疑問に思う。むかし後漢王朝をひらいた光武帝は、ちっぽけな軍隊で王莽(前漢王朝を滅ぼし、新王朝をつくった人)の百万人をこえる大軍と戦い、そして勝った。このとき光武帝は、刑罰を使って部下を統率したわけではない。どうしてこんなことが可能だったのか?」
 李靖が答えました。
「戦争する人が勝ったり、負けたりする条件は、まさに千差万別で、たった一つのことから、ほかのすべてを推察することはできません。たとえば、秦王朝に対して反乱を起こした陳勝と呉広は秦軍に勝ちましたが、このとき反乱軍の刑罰が秦軍のそれよりも厳しかったわけではありません。光武帝は、人々の王莽へのうらみを背景にして兵を起こしたので、人々から支持されていました。しかも、王莽から軍隊の指揮をまかされていた王尋と王邑は、兵法をまったく理解しておらず、大軍だからとたかをくくっていました。ですから、みずから敗れる結果となったのです。
『孫子』に『兵士たちがまだなついていないのに、刑罰を厳しくするなら、兵士たちは心服しない。すでに兵士たちがなついていても、刑罰をゆるがせにするなら、軍隊は使い物にならなくなる』とあります。この言葉の意味は、『将軍たる者は、まず恩愛によって兵士たちの信頼を獲得することが大切で、そうしてはじめて厳しい刑罰を使うことができる。あまり兵士たちをかわいがっていないのに、ただ厳しい法律で命令に違反した者をとりしまるばかりなら、あまり成功できない』ということです」
 太宗が質問しました。
「『書経』には『威厳が愛情よりも多ければ、成功できる。愛情が威厳よりも多ければ、成功できない』とあるが、これはどういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「先に恩愛をほどこし、あとから威刑をくわえるという順番は、逆にしてはいけません。もし兵士たちに、先に威刑をくわえ、あとから恩愛をほどこすなら、まったく効果が期待できません。『書経』が言っているのは、『戦争が起きたあとには、全軍に気をひきしめさせる必要がある』ということであり、『戦争を起こす前には、兵士たちを厳しくしつけておく必要がある』ということではありません。ですから、『孫子』の言葉は、決して無視できないのです」

(14)
 太宗が言いました。
「そのほうが江南地方の蕭銑を撃ち破ったとき、部下の将軍たちは、蕭銑の臣下の財産を没収して、それを兵士たちの恩賞にすることを主張した。しかし、そのほうは『むかし漢王朝の時代、韓信が謀反の疑いをかけられ処罰されたとき、韓信に謀反をすすめた弁士は処罰されなかった。ましてや蕭銑の臣下たちは、唐に敵対するよう蕭銑にすすめたわけではない。それなのに、どうして罪を問えようか』と言って、財産の没収を許さなかった。その結果、江南地方の住民たちは、あっさりと帰順してきた。わしは、これを聞いたとき、古人は『文徳は人々を心服させ、武威は人々を威服させる』と言っているが、そのほうこそはこの言葉どおりの人間だなと思ったものだ」
 李靖が答えました。
「むかし光武帝は、赤眉軍(当時の農民反乱軍)と戦ったことがありましたが、その赤眉軍が降伏してきたあと、数人の部下を連れただけで、赤眉軍のなかを馬に乗って、ゆっくりと視察してまわりました。それを見た赤眉軍の将兵たちは、いつ処罰されるのかと不安に思っていたのですが、口々に『光武帝さまは、大した武器ももたず、しかも、あんな少ない人数で自分たちのところへ来られた。これは自分たちのことを許してくだり、しかも信じてくださっている何よりの証拠だ』と言って喜びました。このとき光武帝が軽装で赤眉軍のなかに入っていったのは、『赤眉軍は、もともと天下をとろうという野心をいだいて挙兵したのではなく、ただ単に王莽の暴政のために生活が苦しくなって、やむをえず反乱を起こしたにすぎない』という実情をわかっていて、『こちらが誠意を示せば、むこうも誠意を示してくれるだろう』と判断したからであり、なんの考えもなしに一か八かのカケに出たわけではありません。
 この前、わたくしが突厥を討伐しましたとき、中国人部隊と異民族部隊からなる混成軍をひきい、基地を出て千里の遠くまで軍を進めましたが、秩序を乱す人間や規則を守らない人間を一人も出しませんでした。このようにできたのも、光武帝のように真心をもって兵士たちに接し、公正無私にふるまったからにすぎません。陛下はとてもご寛大で、わたくしのような旧隋王朝の臣下であっても信任してくださるくらいですから、わたくしを文武兼備だと評価なさるのでしたら、それは評価しすぎというものです」

(15)
 太宗が言いました。
「むかし、講和のための使者として唐倹を突厥に派遣したとき、そのほうは、講和使節が来て油断している今こそが突厥を撃ち破るチャンスだとばかりに奇襲攻撃をしかけ、突厥を大敗させた。このことに関して『李靖は突厥に勝つため、唐倹を死間(死を覚悟して相手側にウソの情報を流すスパイ)がわりに利用したのだ』とウワサする者もいたが、わしは今でもこんなウワサを信じられない。それで、実際のところは、どうなのだ?」
 李靖は頭を深々と下げてから言いました。
「わたくしは唐倹とともに、互いに力をあわせて陛下にお仕えしてまいりましたが、唐倹の弁舌では決して突厥を説き伏せられないことは明白でした。ですから、講和使節が来て突厥の将兵が油断しているのに乗じて突厥を攻撃したのです。これによって、突厥の我が国に対する脅威を取り除くことができました。国を思うという大義のため、友を思うという小義をかなぐり捨てたのです。わたくしが最初から唐倹を死間として利用するつもりだったのだと言う人もいますが、それはわたくしの本心ではありません。
『孫子』では、スパイを使って戦うことを最低の策略と位置づけています。それに関して、わたくしは、次のように書いたことがあります。『水は船を浮かべることもできるが、船を転覆させることもある。同じように、スパイを使うことで成功することもできるが、スパイが敵にウソの情報をつかまされることで、こちらがまんまとだまされて失敗することもある。もし若いころから君主につかえ、政務についているときにはつねに態度をきちんとし、良心をつらぬくことで節操をなくさず、他人をいつわらないことで誠意をつらぬく臣下がいたなら、いくらすぐれたスパイがいても、使い物にならない』と。唐倹とのことは、小義の問題にすぎません。陛下、どうかご疑念をもたれないでください」
 太宗が言いました。
「まったく、そのとおりだ。りっぱな人物でなければ、スパイを使いこなせないものだ。どうしてつまらない人間にできようか。かの周公(周王朝をひらいた武王の弟で、その補佐役)は、大義のために、反乱を起こした親戚を攻め滅ぼした。ましてや一人の使者については言うまでもない。そのほうについての悪いウワサは、まったくのでたらめだと確信したぞ」

(16)
 太宗が質問しました。
「戦争においては、主導権を握って主人の立場に立つことを尊び、主導権を握られて客の立場にまわることを尊ばない。また、すみやかに終わらせることを尊び、長く続くことを尊ばない。このように言われているが、これはどういうことだ?」
 李靖が答えました。
「戦争とは、やむをえずに行うものであって、敵に主導権を握られ、しかも長びくのは、よろしくありません。『孫子』に『物資を遠くまで輸送すると、国民たちはみんな貧しくなる』とありますが、これが国境をこえて侵攻し、軍隊が客の立場にまわったときの弊害です。また、同じく『孫子』に『国民の徴兵は二回もしてはならず、国内からの物資の輸送は三回もしてはならない』とありますが、これは戦争を長びかせるべきでない証拠です。
 わたくしは、どんなときに主導権を握れるのかについて研究して、こちらは客の立場から主人の立場となり、あちらを主人の立場から客の立場にすることで、主導権をとる方法をみつけました」
 太宗が言いました。
「それは、どんな方法だ?」
 李靖が答えました。
「①敵国の物資を奪うことが、客の立場から主人の立場になる方法です。物資があれば、長い間もちこたえられますので、主導権を握っていると言えます。②また、敵が満腹なときには敵を飢えさせ、敵が元気なときには敵を疲れさせるのが、主人の立場から客の立場にする方法です。飢えて疲れていれば、かたく守ることは難しくなりますので、主導権を握られていると言えます。ですから、戦争においては、主人になる、ならない、すみやかに終わる、終わらないといったことにあまりこだわらず、状況に応じて、こちらが有利になる方法を臨機応変に選択していけば、おのずと勝てるにすぎません」
 太宗が言いました。
「古人の戦いのなかにも、このような戦い方をした例があるのか?」
 李靖が答えました。
「むかし、春秋時代、勾践(越国の国王)が夫差(呉国の国王)を攻めたとき、越国軍は左右両軍を使って、太鼓をけたたましく打ち鳴らしながら夜襲をかけました。呉国軍は兵を分散させて、それを防いだのですが、その間に越国軍の中軍は、ひそかに川を渡り、物音をたてずに進軍して、奇襲をかけました。これによって、越国軍は呉国軍を大敗させました。これが、客の立場から主人の立場になることの好例です。
 また、五胡十六国時代、河北地方で石勒と姫澹の二人の実力者が覇権を争っていたましたが、姫澹が遠く石勒の本拠地までゆうゆうと攻めこんできたとき、石勒は部下の孔萇に前衛となる部隊をまかせて、姫澹のひきいる軍隊を迎撃させました。そのとき孔萇軍はすぐに退却し、姫澹軍はそれを追撃しました。そこへ石勒のひきいる伏兵たちが背後から襲いかかり、石勒軍と孔萇軍にはさみうちされるかたちとなった姫澹軍は、大敗しました。これが、疲れている状態から元気な状態になることの好例です。古人のこのような戦例は多くあります」

(17)
 太宗が質問しました。
「太公望は、鉄?藜(まきびし)や行馬(バリゲード)を開発したと言われているが、これは本当なのか?」
 李靖が答えました。
「たしかに太公望はそんな兵器を開発しましたが、それらはあくまでも守備のための兵器にすぎません。戦争において重要なことは、敵をうまく誘導して勝つことであり、ただ敵の攻撃から身を守ることではありません。太公望の書いた『六韜』に記述されているそれらの兵器は、守り防ぐための道具であり、攻勢に出るために役立つものではありません」
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社会はどのみち終わる理由
ナオト 2019/08/18 14:50 編集
「広島の土砂災害の犠牲者は   行方不明者一人を含め


74人



デング熱の感染者


9月6日   69  96


日月の印の日に   74名だった






74の数字が現れる   


74年生まれは   寅年


氷河期世代の寅年は   今年40になる




世代交代が始まる


311以後   死者が急増して


人口バランスに   変化が始まっている



第二次ベビーブーマー世代の   氷河期世代


この年代に   社会の重心が移る


それが来年以降   本格的になる








若者の貧困は   この世代から始まった


それは   上の人口マス世代   団塊世代と


パイの奪い合いになっているからで


実際に職や経済面の   現実的なこと以前に


想念の世界でも   激しいエネルギーの喰われ方をしているから


現実にも   形となって現れる


その   歪な流れが   来年以降   反転する


やったことが   かえっていく  







多分   団塊世代の   芸能界の


旗頭が   次々と   倒れていく



早めに身を引いた方が賢明だけど


いつまでもしがみついていると   反動で


大きな返り討ちにあうような気がする


潮目が変わったら   引き時が大切








氷河期世代の代表は   芸能界でいえば


SM○Pとかなんだけど   最近は   T○KIOの方が


勢いがあるね


自然を味方につけたから   311以降


こちらのグループの方が   リーダーに見えるんだね



政治社会では   ホリエモンかな


最近   ホリエモンがまた


再ブレイクしそうな気配を感じる






私はこの世代が   これまでの社会を


継続して発展させる気が   あるような気がしない


終わりを見届け   破壊していく


そんな世代のような気がする」
http://suishounohibiki.blog.fc2.com/?mode=m&no=855
から引用

「今、日本中を驚かしている問題に、杜撰な「勤労統計」を適用して平然としていた厚労省問題がある。いや、厚労省に限らず、大企業内にも、製品のデータを改ざんして口をぬぐって平然としている輩がいる。

嘘をつくことを何とも思わず、誤魔化すことが日常になり、仕事にまじめに取り組まないこんな“公務員”等がなぜ生じたのか?

 

そこで“ハタ”と教えられたのが「全共闘世代が、一世代回ったとき、日本がどうなっているか非常に楽しみでもあり、不安でもある」という、この小説に出てくる『被疑者』の言葉である。

 

前掲した各種記事の日付は昭和五五~六〇年代である。この当時は「非暴力青年」や「無気力青年」が跋扈していて、それらを指導する立場にある大学教授らは「健全に育っている」と自賛していた。

総務庁の調査は「無気力で、何もしたくない若者たちの急増を」を危惧していた。

 

当時、一五歳から二五歳だった青年たちは、現在は五〇才台に“成長”しているはずだ。丁度社会の中枢に入り込んでいるだろうから、今の世は、正に『被疑者』が言う一世代廻った状態にあるはずだ。

だとすれば、無気力で「外国が攻めてきたら逃げる」と答えた世代が国の要所を占めていることになる。

何となく、今の乱れた社会の原因の一つの謎が解けた気がする…。」
https://satoumamoru.hatenablog.com/entry/2019/02/06/154607
から引用

 氷河期世代になったら社会は終わるだろう。しかし、外国が攻めてきたら逃げると答えた世代が要所を占めていても困る。社会はどのみち終わると思います。
  
Re:社会はどのみち終わる理由
2019/08/18 17:56
>
> 氷河期世代になったら社会は終わるだろう。しかし、外国が攻めてきたら逃げると答えた世代が要所を占めていても困る。社会はどのみち終わると思います。

ともわれ、私も氷河期{寅の前の牛}片割れですから、この狂った社会にとどめを刺したいです。


書き込みありがとうございます。
この世界を破壊する(by仮面ライダーディケイド)
さすらえる名無し 2019/08/19 08:54 編集
焼け跡団塊しらけ新人類バブルに段階的にボロボロにさせられたこの国は
氷河期団塊Jr'が実権握るタイミングの前後に破壊されそうな悪寒。

だって'70〜'80年生まれの世代をここまで冷遇しまくったんだから
そのツケはキッチリ払って貰わないとね(悪笑)

ちな俺'74年1月生まれの寅年です……
  
Re:この世界を破壊する(by仮面ライダーディケイド)
2019/08/19 13:41
>
>ちな俺'74年1月生まれの寅年です……

私と一か月違いですか・・・73年14月ですから。

なんか、おかしかったですよね・・・教育とか、偉い人の発言とか・・・

その「おかしさ」が残されたまま、増幅して、破壊に行っているような。

書き込みありがとうございます。
そーいや
さすらえる名無し 2019/08/19 08:56 編集
しらけや新人類やバブルのJr'たるゆとりやさとりも
倫理崩壊が凄まじい勢いで進んでそうな………
  
Re:そーいや
2019/08/19 13:42
>しらけや新人類やバブルのJr'たるゆとりやさとりも
>倫理崩壊が凄まじい勢いで進んでそうな………

その前が、天皇の無責任で壊れているから・・・・

あと経済難と、上長の無責任システムで、かなり破壊が加速していると思います。

書き込み有難うございます。
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