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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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福田晃市氏 訳 出典サイト 中国兵法 より

李衛公問対 下巻

(1)
 太宗が言いました。
「太公望は『歩兵を使って戦車や騎兵と戦う場合、必ず丘陵、墓地、地形のけわしい土地を戦場に選ばなければならない』と言っているが、『孫子』には『山間の起伏のはげしい場所、丘陵、墓地、城跡には、軍隊をとどめてはならない』と言っている。両者の意見はくい違っているが、これはどういうことだ?」
 李靖が答えました。
「兵士たちをうまく使うには、全員の心が一つになっていることが大切です。全員の心が一つになるようにするには、『うらない』や『まじない』などの迷信的なことがらを禁止し、疑念をとりはらうことが大切です。もし将軍の心が疑い迷っていたり、迷信を気にしていたりしたら、兵士たちの気持ちもまた動揺します。兵士たちの気持ちが動揺すれば、それに乗じて敵が攻めかかってきます。そこで、兵士たちが安心して陣地で配置につき、そこを拠点にしてしっかり戦えるようにするには、軍事行動に便利なところを選ばなければいけません。(水場や草場が近くにあり、森林のなかに陣どり、騎兵が駆けまわりやすい場所があれば、軍事行動に便利です)。しかし、たとえば、絶澗(こえられない山間の渓谷)、天井(急な斜面に囲まれたくぼ地)、天陥(土地が低くて水がたまりやすく、ぬかるみやすい土地)、天隙(二つの山の間にある狭くて通りにくい道)、天牢(山がけわしかったり、霧がかかりやすかったりなどして、入りやすいけど、出にくい土地)、天羅(草木のおい茂っているジャングル)などの場所は、すべて軍事行動には不便なところです。ですから、それらの場所からはさっさと離れ、そこを避けねばなりません。こうして、敵がこちらの不利に乗じて攻めてくるのを防止するのです。
 いっぽう、丘陵、墓地、城跡などの場所は、軍事行動を阻害するものではなく、そこを占拠すれば、こちらに有利となります。どうして、そこを放棄して、退去する必要があるでしょうか。太公望は、兵法家として知っておくべき一番の要点について言っているのです」

(2)
 太宗が言いました。
「わしは思うのだが、この世に戦争ほど凶悪なものはない。そこで、やむをえず戦争することになったときには、さっさと戦争を終わらせるためにも、どんなチャンスをも見逃してはならず、迷信にとらわれ、せっかくチャンスがめぐってきたのに、たとえば『今日は日が悪いから』とか、『うらなうと不吉な結果が出たから』とかいう理由で、ぐずぐずして決戦をためらってはならない。今後は、『うらない』や『まじない』などの迷信にとらわれて、せっかくのチャンスを逃すようなことがあってはならないということを、そのほうから将軍たちにきちんと言って聞かせてやってくれ」
 李靖は深々と頭をさげてから言いました。
「『尉繚子』に『黄帝は、徳を用いてみずから守り、刑を用いて悪人を討伐した。ここで言う刑徳とは、陰陽家が用いる迷信的なことがらではない』とあります。しかしながら、戦争のうまい人が使う、相手をだまして、こちらに都合がいいように誘導する方法を用いれば、こちらの思いどおりに人をあやつれますが、あやつられた方にしてみれば、どうしてそんなことになったのか、わけがわかりません。あたかも魔法にかけられたかのような錯覚におちいります。それで、平凡な将軍たちは、『うらない』や『まじない』などの迷信をころっと信じてしまい、それにとらわれてしまうのです。そのため大敗した例は多くあり、こういったことにならないように戒める必要があります。陛下から賜りましたご訓戒を、わたくしはきちんと将軍たちに通知、徹底いたします」

(3)
 太宗が質問しました。
「軍隊は、分けて使うこともあれば、合わせて使うこともある。どちらを使うかは、そのときの状況に応じて、臨機応変に決めていくことが大切だが、むかしの戦例をみたとき、これをだれが一番うまくできたのか?」
 李靖が答えました。
「符堅は、百万人もの兵士をひきつれていながらも、謝安のひきいる三万人の軍隊に敗れました。これはよく合わせることはできても、よく分けることができなかったからです。
 いっぽう、光武帝は呉漢に命じて公孫述を討伐させましたが、このとき呉漢は、軍隊を二つに分け、一隊を副将の劉尚にまかせました。そして、呉漢と劉尚は、互いに二十里ほど離れて布陣したのですが、公孫述が呉漢の陣地を攻めたとき、劉尚は兵を出して呉漢軍と合流し、公孫述の軍勢を攻撃しました。これにより、公孫述は大敗しました。このように勝てたのは、分かれていながらも、よく合わせることができたからです。
 太公望は、こう言っています。『分散すべきときに分散できない軍隊は、縛られた軍隊である。集合すべきときに集合できない軍隊は、孤立した軍隊である』と」
 太宗が言いました。
「まったく、その通りだ。符堅は、よく兵法を理解していた王猛を宰相としていたので、中国の中心部を獲得できたが、王猛が死ぬや、謝安との戦いに敗北してしまった。これは軍隊を縛って分けることができなかったためだろう。いっぽう、呉漢は、光武帝から軍隊の指揮を一任され、なんの制約も受けなかったので、公孫述を打ち倒し、その支配地域を占領できた。これは各軍を孤立させることなく、合わせることができたからであろう。光武帝が成功し、符堅が失敗した、この事例は、後世のよい手本とできる」

(4)
 太宗が質問しました。
「わしは兵法の本に書かれている言葉を多くみてきたが、その要点は『いろんな方法を使って、相手をまちがわせる』という一言につきるのではないだろうか?」
 李靖はしばらく考えてから答えました。
「まことに陛下のおっしゃるとおりです。およそ戦いにおいては、敵がまちがわなければ、こちらがどうして勝てるでしょうか。たとえば将棋をするようなもので、両者の力量が均等な場合、一手でもまちがえれば、それだけでどうしようもなくなってしまいます。このように、古今の勝敗は、たいていたった一度のまちがいで決まっているにすぎません。ましてや多くのまちがいをした場合、負けて当然です」

(5)
 太宗が言いました。
「攻撃と守備の二つのことがらは、実際は一つの戦法ではないだろうか。『孫子』に『攻撃のうまい人は、敵がどこを守ればいいのかわからないようにする。守備のうまい人は、敵がどこを攻めればいいのかわからいようにする』とあるが、そこには『敵が攻めてきたときに、こちらも攻める場合』や『こちらが守っているときに、敵も守る場合』について、なにも書かれていない。自他の勢いが均等で、力量が同等である場合は、いったいどのような戦法をとればいいのか?」
 李靖が答えました。
「むかしから、このように互いに攻めたり、互いに守ったりすることは、とても多くあります。このときの原則について、だれもが『守るのは足らないのであり、攻めるのはあり余っているのだ』と解説しました。足らないというのは、力が弱いことで、あり余っているというのは、力が弱いことです。これでは、どうも攻守の原則について、わかっているとは思えません。
『孫子』に『勝てる者は攻めるし、勝てない者は守る』とあります。これは、『敵に勝てるチャンスがなければ、しばらく守備しながら時を待ち、敵にスキがあって勝てるのであれば、すぐさま攻撃する』という意味であり、力の強弱について説いているのではありません。後世の人々は、その意味を理解せず、そのため攻めるべきときに守ったり、守るべきときに攻めたりしています。攻守の使い方をまちがっているので、攻守を二つあわせてうまく使いこなすことができないのです」
 太宗が言いました。
「まったく、そのとおりだな。あり余っているとか、足りないとかいうことは、人にそれは力の強弱によるのだという誤解を与えた。とくに『守備の方法としては、こちらを劣勢に見せかけるのが大切であり、攻撃の方法としては、こちらを優勢に見せかけるのが大切である』ということをわかっていない。こちらが劣勢である見せかければ、敵は必ず攻めてくるが、本当のところがわかっていないので、まさに『どこを攻めればよいのかわからない』という状態になる。反対に、こちらが優勢であると見せかければ、敵は必ず守りにまわるが、本当のところがわかっていないので、まさに『どこを守ればよいのかわからない』という状態になる。
 攻撃と守備は一つの戦法にすぎないが、ただ敵とこちらにわかれて二つになるにすぎない。こちらが成功すれば、あちらは敗北するが、あちらが成功すれば、こちらが敗北する。一方が成功すれば、他方は失敗し、一方が勝利すれば、他方が敗北するというように、攻守の結果は二つにわかれるが、攻守は一つの戦法にすぎず、負けて当然の弱いほうが守り、勝って当然の強いほうが攻めるというようなものではない。攻守を一つのものとしてうまく使いこなせる人は、連戦連勝できる。だから、『あちらのことを知り、こちらのことを知っていれば、いくら戦っても危機におちいることはない』と言われているのだが、これは攻守が一つの戦法だと知っているということである」
 李靖は深々と頭を下げてから言いました。
「すぐれた人物の戦法は、なんとも深遠なものでございますね。攻めるとは、守りながら攻撃のチャンスを待った結果ですし、守るとは、攻めるための策略をねる時間をとる方法です。両者ともに勝利をめざすための手段にすぎません。攻めることを知っていても守ることを知らず、守ることを知っていても攻めることを知らないというのは、ただ攻撃と守備を二つにわけて考えるのみならず、両者を別々に使うようになります。『孫子』や『呉子』の兵法を口に出して言うことができても、攻守をあわせて使うことの効用を心からわかっていなければ、どうして攻守が一つであることをわかるでしょうか」

(6)
 太宗が言いました。
「『司馬法』に『国は、いくら大きくても、戦いを好めば必ず滅びる。天下は、いくら平和でも、戦いを忘れると必ず危うくなる』とある。この言葉もまた、攻守が一つの手段であることを言っているのか?」
 李靖が答えました。
「国をおさめ、家をおさめる立場にあるものは、攻めと守りの方法について研究し、それをきわめなければなりません。そもそも攻めるにあたっては、ただ敵の城を攻め、敵の陣を攻めるだけでなく、必ず敵の心を攻めるノウハウをもつことが必要です。また、守るにあたっては、ただ城を築き、陣を固めるだけでなく、必ずこちらの気力を守ってチャンスを待つことが必要です」
 太宗が言いました。
「まことに、そのそおりだ。わしはいつも、戦うときには、まず敵の心とこちらの心とでは、どちらが知恵にすぐれているかをはかってから、はじめて敵の長短を判断できたものだし、また、まず敵の気力とこちらの気力とでは、どちらが充実しているかを調べてから、はじめてこちらの強弱を判断できたものだ。それで兵法家は、『あちらを知り、こちらを知ること』を重視するのだろう。今の将軍は、たとえ敵の長短をよく判断できてなくとも、こちらの強弱を判断できていれば、どうして失敗したりしようか」
 李靖が言いました。
「『孫子』に『まず敵がこちらに勝てないような状態をつくる』とありますが、これが『こちらを知る』ということです。また、『敵がこちらの勝ちやすい状態になるのを待つ』とありますが、これが『敵を知る』ということです。さらに『敵がこちらに勝てないのは、こちらが充実しているからで、こちらが敵に勝てるのは、敵が虚弱であるからだ』とありますが、わたくしはこの言葉を戒めとして、つねに忘れないようにしています」

(7)
 太宗が質問しました。
「『孫子』に全軍の気力をなえさせる方法について述べてあり、そこには『早朝の気力は力強く、昼頃の気力はたるんでおり、夕方の気力は弱まっている。用兵のうまい人は、敵の力強い気力をさけ、気力がたるみ、弱まるのを待って攻撃する』とある。これについて、そのほうはどう思うか?』
 李靖が答えました。
「生きて血のかよっている人間が、奮起して敵と戦い、たとえ死ぬことになっても気にしないことがありますが、それは気力がそうさせるのです。ですから、軍隊を指揮する方法としては、まずこちらの将兵たちの状態をよく調べ、必ず敵に勝とうとする強い意志をふるいたたせるようにします。そうすれば、敵を撃ち破れます。
 呉起は『四機(勝つために必要な四つの要素)』をとりあげ、そのなかでも特に『気機(将軍がすぐれたリーダーシップを発揮すること)』を重くみていて、それ以外の方法はありません。将兵たちがみずから戦うように仕向けることができれば、こちらの勢いはとても強まります。『孫子』に言う『早朝の気力は力強い』とは、時刻をかぎって言っているのではなく、たとえでそう言っているにすぎません。だいたい三たび突撃を合図する太鼓をうち鳴らしても、敵の気力がたるまず、弱まらないなら、どうして敵をたるませ、弱まらせることができるでしょうか。兵法書を学ぶ人は、そこに書いてあることをそのまま暗記するだけなら、敵からいいようにコントロールされてしまいます。もし敵の気力を奪うことの本当の意味について、きちんと理解している人がいれば、その人こそ軍隊の指揮をまかせるのにふさわしい人物です」

(8)
 太宗が言いました。
「そのほうはかつて『李世勣は兵法をよくわかっている』と言っていたが、これからもずっとあいつを使いつづけられるだろうか? わしのようにあらあらしさがなければ、きっとあいつを使いこなせないのではないだろうか? いずれわしのあとをついで皇帝になる治(太宗の三男)は、わしと違ってやさしい性格なので心配だ。どんなふうにすれば、治はあいつを使いこなせるだろうか?」
 李靖が答えました。
「陛下のためにもくろみますと、まず陛下が李世勣を左遷なされ、そのあと皇太子殿下が即位されましたとき、皇太子殿下が彼をふたたび高位につけるというかたちをとるのがベストでございましょう。そのようにいたしますれば、李世勣は、あのまっすぐな性格からして必ず皇太子殿下に恩を感じ、それに報いようとするでしょう。これなら物事の道理にもかなっています」
 太宗が言いました。
「それは名案だ。それなら大丈夫だろう」
 太宗が言いました。
「李世勣と長孫無忌(太宗の妻の父)に共同で国政をとらせた場合、将来的にはどうなるだろうか?」
 李靖が答えました。
「李世勣は忠義の臣下ですから、ずっと国政をとらせてもよいでしょう。長孫無忌は建国に貢献し、陛下に対し大きな功績をあげておりまして、陛下の親戚ということで宰相の職についております。しかしながら、表面的には謙虚そうにみえますが、実際には賢者をねたんで憎むような人間です。ですから、尉遅敬徳は、面と向かって長孫無忌の短所をとがめたあと、とうとう引退してしまいした。また、候君集は、長孫無忌が旧交を忘れたことをうらんで、クーデターに加わりました。これらはすべて長孫無忌が原因となっております。いま、陛下がわたくしにご下問なされましたので、わたくしは言いにくいこともあえて言わせていただきました」
 太宗が言いました。
「そのほうは、今回の話をそとにもらしてはならん。わしは、この件について、どのようにすべきかをゆっくり考えよう」

(9)
 太宗が質問しました。
「漢王朝をひらいた劉邦は、ただのリーダーではなく、リーダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていると言われていたが、天下を平定したあと、将軍として功績のあった韓信や彭越を処刑したし、宰相として功績のあった蕭何を処罰した。どうしてこんなことになったのだ?」
 李靖が言いました。
「わたくしは、劉邦も、項羽(劉邦と天下を争った戦いのうまかった王)も、ともにリーダーのリーダとしてのすぐれた才能をもっていたとは思いません。秦王朝が滅亡するにあたり、張良(劉邦に仕えた名参謀)はもともと韓国の宰相の一族であり、韓国が秦王朝に滅ぼされたので、その復讐をくわだてていました。また、陳平(劉邦に仕えた策士)と韓信は、もともと項羽のところにいましたが、項羽にまったく進言を聞いてもらえないので、それをうらんでいました。ですから、彼らは、劉邦の力をかりて、自分たちの願いをかなえようとしたのです。さらに蕭何、曹参、樊、灌嬰などは、みんな他に行き場がなくて、仕方がなくて劉邦のもとに亡命してきた者たちです。劉邦は、そんなふうにして集まってきた彼らを使うことで、天下をとることができました。もし秦王朝に滅ぼされた国々が復興されていたなら、彼らも祖国をなつかしく思い、祖国の君主に仕えたでしょう。そうなれば、いくら劉邦がリーダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていたとしても、漢王朝のために彼らを使い続けることはできなかったでしょう。劉邦が天下を取れたのは、張良がその深謀遠慮を発揮して天下統一のためのプランを指し示し、蕭何がよく銃後を守って前線への補給を絶やさないように粉骨砕身の努力をしたからです。
 以上の観点から言えば、劉邦が韓信と彭越を処刑したことと、項羽が范増(項羽につかえた軍師)をしりぞけて憤死させたこととは、どちらも事情が同じです。ですから、わたくしは、劉邦も、項羽も、ともにリーダーのリーダとしてのすぐれた才能をもっていたとは思わないのです」
 太宗が質問しました。
「光武帝は、いったん滅ぼされた漢王朝をたてなおしたあと、てがらをたてた臣下たちを守るため、彼らを政治のおもて舞台にたたせなかった。この場合、光武帝はリーダーのリーダーとしてすぐれていたと言えるか?」
 李靖が答えました。
「光武帝は、先祖代々にわたって築き上げてきた基盤があったので、確かに成功しやすい立場にあったとはいえ、王莽の勢力は項羽にひけをとるものではありませんでしたし、光武帝のもとで働いた鄧禹や冦恂の才能は蕭何や曹参ほどではありませんでした。しかし、光武帝という人は、まごころをもって人に接し、柔和な方法を用いることのできる人でしたので、てがらをたてた臣下たちを守りました。この点では、劉邦よりも賢明であったと言えます。ここからリーダーのリーダとしてのすぐれた才能について論じるなら、わたくしは光武帝こそがそういった才能をもっていたと思います」



(10)
 太宗が言いました。
「むかし、帝王は、出兵を決め、将軍を任命するにあたり、三日間にわたって身を清め、将軍の任命式をとりおこなった。任命式では、まず将軍にまさかりを授与して、『これより天に至るまで、将軍がとりしきる』と言い、士気を高めるべきことを示した。それからおのを授与して、『これより地に至るまで、将軍がとりしきる』と言い、あわれみの気持ちをもつべきことを示した。そして最後に戦車の車軸に手をそえて、『進むも、退くも、時によって決めよ』と言い、現場にいる将軍の判断で臨機応変に行動すべきことを示した。こうして軍隊が出発してからは、君主の命令よりも将軍の命令が優先された。こういった将軍を任命する儀式は今やまったくすたれてしまったが、わしはそのほうとはかって、あらためて将軍を派遣する儀式を制定したい。そのほうは、どう思うか?」
 李靖が答えました。
「聖人の定めた礼法をみてみますに、①宗廟で身を清めるのは、縁起をかつぐためですし、②おのやまさかりを授けたり、戦車の車軸に手をそえたりするのは、思うままに軍隊を動かす権限を委任するためです。今、陛下は、①開戦なさるときにはいつも大臣たちとその是非を議論し、そのあと宗廟に祈ってから軍隊を出動させていますが、ここですでにきちんと縁起をかついでいます。②また、将軍を任命なさるときにはいつも臨機応変に行動するように命じられたおられますが、ここですでに思うままに軍隊を動かす権限を委任しておられます。こうしてみてきますと、現在のやり方は、むかしの帝王のやっていた儀礼と実質的には同じです。あらためて儀礼を制定する必要はないと思います」
 太宗が言いました。
「そのほうの言うとおりだ。さっそく側近たちに命じて、以上の二つを文書にまとめさせ、それを今後の正式なやり方としよう」

(11)
 太宗が言いました。
「たとえば『まじない』や『うらない』などの迷信は、排除してよいか?」
 李靖が答えました。
「それはできません。戦争においては、いかに相手をだまして、こちらに都合のいいように動かすかが重要となってきます。『まじない』や『うらない』などの迷信を利用すれば、貪欲な人や愚鈍な人をうまくコントロールすることができます。そういうわけで、排除できないのです」
 太宗が質問しました。
「そのほうは、かつて『知恵ある将軍は、運勢のよしあしを気にしないが、愚かな将軍は、運勢のよしあしにこだわる』と言っていたが、このことからすれば、『まじない』や『うらない』などの迷信は、排除したほうがいいのではないか?」
 李靖が答えました。
「むかし、周王朝の武王と殷王朝の紂王が戦ったとき、その日は運勢の悪い日にあたっていましたが、紂王はその日に戦って負け、武王はその日に戦って勝ちました。その日が両者にとって運勢のわるい日であることには違いがなかったにもかかわらず、殷王朝は滅亡し、周王朝は興隆したというように、戦いの結果は違いました。
 さらに、南北朝時代、宋国の武帝(劉裕)は、南燕国と戦争することに決めたのですが、その日はちょうど運勢の悪い日にあたっていました。そのため軍事顧問の役人は、日が悪いという理由で、その日に戦争することに反対しました。しかし、武帝は『それは、こちらが出兵し、あちらが滅亡するということだ』と言って戦争を始め、そして見事に勝利しました。これらのことからも明らかなように、『まじない』や『うらない』などの迷信は排除して、あてにしないようにしなければいけません。
 しかしながら、春秋戦国時代、斉国が燕国に攻められ、滅亡しそうになったとき、斉国の将軍に任命された田単は、兵士の一人に神様がのりうつったといつわり、その兵士を全軍の前でおがんでみせ、神殿にまつりました。そして、『燕国は敗北するであろう』という神様のお告げがあったことにしました。こうして田単は、斉国軍の将兵をうまくだまして、その士気を高めたうえで、奇策を用いて燕国軍に奇襲攻撃をしかけ、大いに撃ち破りました。これが兵法家の用いる『相手をうまくだまして、こちらに都合がいいようにする方法』でして、運勢のよしあしを使うこともまた、その一種なのです」
 太宗が質問しました。
「斉国の将軍の田単は、神のお告げを利用して燕国に勝ったが、周王朝の軍師の太公望は、うらないを無視して殷王朝に勝った。一方は迷信を使い、もう一方は迷信を使わないというように、両者はまったく逆のことをしているが、これはどういうことだ?」
 李靖が答えました。
「その士気を高めるためにするという目的は、どちらも同じです。一方(田単)は迷信を排除すべきという原則に逆らい、それをうまく利用して敵に勝ち、もう一方(太公望)は迷信を排除すべきという原則に従い、そのときの状況に応じて最善の策をとったのです。
 むかし太公望が、武王を補佐して牧野(殷王朝との天下わけ目の決戦が行われた場所)まで軍を進めたとき、いきなり落雷と豪雨にみまわれ、多くの軍旗や太鼓が損傷してしまいました。そのあまりに不吉なできごとに、将兵たちは動揺してしまいました。そこで、散宜生(周王朝の大臣)は、その動揺をなくすため、うらなって吉と出てから再び出発することを主張しました。しかし、太公望は、『うらないなど、ただの迷信にすぎず、頼りにならない。それに第一、殷王朝の天子を倒すチャンスは、今をおいてほかにない』と言って、散宜生の主張をしりぞけました。こうしてみてくると、散宜生は迷信を利用して将兵たちの士気が低下するのを予防しようとし、太公望は迷信をバカにして将兵たちの不安をとりのぞこうとしたわけで、迷信を排除すべきという原則に逆らったり、従ったりというように、そのやり方は異なっていますが、どちらも迷信のせいで動揺している将兵を安心させるためにするという目的は同じです。わたくしが迷信を排除すべきでないと考えますのは、あくまでも迷信を利用すれば、士気をうまく調節して、こちらを有利にするのに使えるからにすぎず、最終的な勝敗はすべて人の努力によって決まります」

(12)
 太宗が言いました。
「現在、将軍の職についているのは、李世勣、道宗、薛萬徹の三人だけだ。そして、三人のうち、道宗以外は親族でないわけだが、だれがいちばん頼りになるだろうか?」
 李靖が答えました。
「かつて陛下は、『李世勣や道宗に軍隊を指揮させると、大勝することはないが、大敗することもない。しかし、薛萬徹に軍隊を指揮させると、大勝しないときには必ず大敗する』と言われました。そのお言葉から考えますに、わざわざ無理して大勝しようとせず、しかも大敗しない軍隊は、きちんとした軍隊です。いっぽう、大勝したり、大敗したりと、勝ち負けの波の激しい軍隊は、行き当たりばったりの軍隊です。ですから、『孫子』では『戦いのうまい人は、まずこちらを敵に負けない状態にして、そうして敵のどんなスキをもみのがさない』と述べ、きちんとした軍隊にすることの大切さを説いているのです」

(13)
 太宗が質問しました。
「両軍が陣をしいて向かい合っており、戦いたくないとき、どのようにすれば戦わずにすむか?」
 李靖が答えました。
「春秋時代、秦国が晋国に侵攻したとき、晋国の張盾は軍隊をひきいて秦国の侵攻軍と戦いましたが、両者はちょっと戦っただけで互いに退却しました。『司馬法』にも『敗退している敵を追撃するときは、あまり遠くまでしてはならない。退却している敵を追尾するときには、あまり近づきすぎてはならない』とあります。わたくしが思いますに、みずから退却しているときには、どんな状況の変化にも即応できる態勢ができているものです。こちらの軍隊がきちんとしていて、敵もまた隊列がととのっているなら、決して安易に戦ってはいけません。古人が出兵しても少しだけしか戦わずに退却し、互いに相手が退却しても追撃しなかったのは、互いにへたにしかけて失敗することをさけようとしたからです。
『孫子』に『布陣のようすが堂々としている軍隊を攻めてはならないし、旗の並び方が整然としている軍隊と戦ってはならない』とあります。もし両軍の規模が同じで、その勢力が対等であるなら、少しでも軽率な行動をとり、敵に乗じるスキを与えたときには、その時点で大敗することが確実となります。これは、あたりまえなことです。そういうわけで、戦争においては、戦わざるべきときと、戦うべきときとがあるのです。戦わざるべきときは、こちらの力量によって決まり、戦うべきときは、敵の力量によって決まります」
 太宗が質問しました。
「戦わざるべきときは、こちらの力量によって決まるとは、どういう意味だ?」
 李靖が答えました。
「『孫子』に『こちらが敵と戦いたくないとき、たとえ地面に線を引いて守っただけでも、敵はこちらと戦いようがなくするには、敵をうまくだまして見当違いの方向に進軍するように仕向ける』とあります。もし敵に優秀な人物がいれば、たとえ互いに退却しているときでも、敵をワナにおとしいれることはできません。ですから、戦わざるべきときは、こちらの力量によって決まるのです。
 ついでに戦うべきときは、敵の力量によって決まるということについても説明しておきますと、『孫子』に『敵をうまく動かせる者は、こちらが弱いように見せかけることで敵をおびきだし、わざと敵を有利にしてやることで敵をひっかけるというように、利によって敵を誘導し、精鋭部隊で敵を待ちうけ、敵がやってきたら一気にたたきつぶす』とありますが、もし敵に優秀な人物がいなければ、敵をうまく誘導してワナにおとしいれ、敵が不利になったところで撃ち破るということが可能となります。ですから、戦うべきときは、敵の力量によって決まるのです」
 太宗が言いました。
「きちんとした軍隊のもつ意味は、とても奥深いものであるなあ。きちんとした軍隊の編成方法がわかっていれば国は栄えるが、わかっていなければ国は衰えてしまう。そのほうは歴代のきちんとした軍隊の好例を集め、それを図解してくれ。わしはそのなかから特によいもの選択して、後世の模範にしようと思う」
 李靖が答えました。
「わたくしが以前、陛下にお示しした黄帝と太公望に由来する二つの陣図、そして『司馬法』と諸葛亮に由来する奇兵と正兵をうまく使い分ける方法は、どれもすぐれたものばかりです。歴代の名将のなかにも、そのなかの一つ二つを使って勝利した者が、とてもたくさんいます。ただ歴史を記録する役人には、兵法をよく理解しているものがほとんどいません。そのため、戦例を正しく把握し、要点をもれなく記録することができていません。わたくしは、必ずや陛下のご命令どおりの仕事をいたしましょう」

(14)
 太宗が質問しました。
「兵法は、だれのがもっとも深遠ですぐれていると言えるか?」
 李靖が答えました。
「わたくしはかつて、兵法の内容を三級にわけて、学ぶ人がだんだんと理解を深めていけるようにしました。一級は『道』です。二級は『天・地』です。三級は『将軍・法則』です。この『道』『天・地』『将軍・法則』は、『孫子』に出てくる言葉です。
『道』が説くところは、とても精細で、とても微妙です。それは、『易経』に言う『なんでも聞き分け、なんでも見分け、わからないことはなく、知らないことはなく、とらわれがなく柔軟で、乱れをきちっと治めることができ、かくして厳しい刑罰を用いずともまわりを従わせることができる』ということで、聖人の境地です。
『天』が説くところは陰謀と陽動で、『地』が説くところは地形の状況です。だれの目にも見えないところで画策することによって、だれの目にも見える大きな勝利を手にし、攻めにくく守りやすいところに陣取ることによって、攻めやすく守りにくいところにいる敵を撃ち破ります。この『天・地』は、『孟子』に言う『天の時、地の利』のことです。
『将軍・法則』が説くところは、すぐれた人物を採用し、すぐれた兵器を配備することです。『将軍』の内容は、『三略』に言う『人材を得たものは栄える』ということで、『法則』の内容は、『管子』に言う『武器は強くて便利でなければならない』ということです」
 太宗が言いました。
「そのほうの言うとおりだ。わしにとって、戦わずして敵を屈服させるのが上等であり、戦って必ず勝利するのが中等であり、堀を深くし、壁を高くし、そうして守りを固めるのが下等であるが、ここからはかり考えるに、『孫子』には三段階がすべて備わっている」
 李靖が言いました。
「その人がなにを言い、なにをしたかをみれば、その人をランクづけることができます。たとえば張良、范蠡、孫武らは、大きな功績をあげたにもかかわらず、事がすむと、高い地位にこだわることもなく、さっぱりと身を引いて、政治のおもて舞台から姿を消しました。これは、『道』を知っているのでなければ、できないことです。
 また、楽毅、管仲、諸葛亮らは、戦えば必ず敵にうち勝ちましたし、守れば必ず敵を追い返しました。これは、天の時と地の利をよくわかっていなければ、できないことです。
 次に、王猛は前秦王朝をよく保ち、謝安は東晋王朝をよく守りましたが、こういうことができたのも、すぐれた将軍を任用し、すぐれた人材を採用し、軍隊の装備をととのえて、きちんと守りを固めていたからです。
 ですから、兵法を学ぶ人は、必ずまず初等から始めて中等へとすすみ、さらに中等から上等へとすすむというようにすれば、順序よくスムーズに理解を深めていけます。そのようにしなければ、ただ兵法家の言葉をまねして言い、兵法書に書いてあることを丸暗記するだけとなり、学んだことを実戦に役立てることができなくなります」
 太宗が言いました。
「道家は、親子三代にわたって将軍になることを忌み嫌っている。確かに兵法は、凶悪な戦争のための学問であるので、みだりに伝えるべきではないが、しかし国を守るためにも、兵法をだれかに伝えないわけにはいかない。そのほうは、慎重に人を選んだうえで、その者に兵法を伝えてもらいたい」
 李靖は、深々と頭を下げてから退出すると、自分の蔵書をすべて李世勣に与えました。
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