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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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福田晃市氏 訳 出典サイト 中国兵法 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

李衛公問対 上巻

(1)
 太宗が言いました。
「高句麗(朝鮮半島北部にあった国)は、たびたび新羅(朝鮮半島南東部にあった国)を侵攻している。わしは使者を派遣して、高句麗に侵攻をやめるように命じたが、高句麗は言うことを聞かない。そこで、わしは軍隊を派遣して高句麗を討伐しようと思うのだが、どんな作戦をとったらいいだろうか?」
 李靖は言いました。
「わたくしが、くわしく調べたところによりますと、高句麗を支配している泉蓋蘇文は、『自分は兵法をよく知っている』とうぬぼれており、『中国には高句麗を討伐する力がない』と言っているそうです。ですから、あえて陛下の命令に逆らっているのです。わたくしに三万の兵をお貸しください。さすれば、泉蓋蘇文をとらえてまいりましょう」
 太宗が言いました。
「三万の兵はとても少ないし、高句麗の地はとても遠くにある。そのほうは、どんな方法を用いて高句麗を討伐するつもりだ?」
 李靖は答えました。
「わたくしは正兵(正攻法を使って戦う軍隊)を用いて高句麗を討伐するつもりです」
 太宗が言いました。
「そのほうが突厥(トルコ族)を平定したとき、奇兵(奇襲や奇策を使って戦う軍隊)を用いて勝利したはずだが、今回、高句麗を討伐するにあたり、正兵を用いると言っている。これはどういうわけだ?」
 李靖は答えました。
「むかし、諸葛亮(蜀漢王朝の名臣で、政治や軍事にたけていた)が、敵将の孟獲をとらえるたびに逃がしてやり、孟獲がまた戦いをいどんできたら、またとらえるということを七回くりかえし、ついに孟獲に『諸葛亮には、とてもかなわない』と抵抗をあきらめさせ、心服させたということがありました。これは、ほかでもなく正兵を用いたにすぎません」
 太宗が言いました。
「西晋王朝に仕えた将軍の馬隆は、涼州にいた樹機能らを討伐したとき、正攻法の基本である八陣図にならって偏箱車(大きな荷車)を作り、広いところでは鹿角車(偏箱車の先に刀や槍をつけたもの)を前にならべて敵の突入を防ぎ、狭いところでは偏箱車の上に屋根をつけ、矢の雨から身を守りつつ、戦ったり、前に進んだりした。これを思えば、古人が正兵を重んじた理由もよくわかる」
 李靖は言いました。
「わたくしが突厥を討伐しましたとき、遠く西に数千里も行っていたのですから、もし正兵を用いなければ、遠征を成功させることはできなかったでしょう。偏箱車や鹿角車などを用いて守りを固めることは、用兵の大事な基本でして、これを用いれば、①こちらの戦力を保つことができ、②敵の前進をはばむことができ、③こちらの隊伍が乱れないようにすることができます。この三つは相互に補完しあっています。これを用いた馬隆は、古人の兵法をよく理解していたと言えます」

(2)
 太宗が言いました。
「わしが宋老生の軍隊を霍邑で破ったときのことだが、戦いが始まってまもなく、右軍が敵におされて後退しだした。わしはみずから鉄騎隊(太宗のもとにいた強力な騎馬隊)をひきい、急ぎ南原より駆け下って敵軍に横から突撃し、敵を分断して混乱させ、ついに宋老生をとらえた。これは正兵になるのか? それとも奇兵になるのか?」
 李靖は答えました。
「陛下の戦いのうまさは、天から与えられた生まれながらの才能でして、学んでできるものではありません。わたくしが兵法を参照してみますに、黄帝(むかしの名君で、戦いがうまかった)よりこのかた、先に正攻法を用い、奇策や奇襲は後にしたものですし、先に道徳を用い、臨機応変の作戦や人をあざむく謀略は後にしたものです。さて、霍邑での宋老生との戦いにおいて、天下の乱れを正すという大義名分のもとに挙兵したことは、正攻法ですし、右軍をひきいていた李建成が落馬して、右軍が後退しだしたのは、奇策だと言えます」
 太宗が言いました。
「あのとき、右軍が後退しだし、もう少しで大敗するところだったというのに、これがどうして奇策だと言えるのか?」
 李靖が言いました。
「およそ戦争では、前に進むのが正攻法となり、うしろに退くのが奇策や奇襲となります。さて、もし右軍が後退しださなければ、どうして宋老生の軍をおびきだすことができたでしょうか。兵法に『利益で敵を誘っておびきだし、敵の混乱に乗じて敵をうちやぶる』とあります。宋老生は、もともと用兵についてわかっておらず、右軍が後退しだすや、チャンスとばかりに勇んで突進していきましたが、鉄騎隊に不意をつかれる危険性をまったく考えておらず、そのため陛下にとらえられました。これこそ、いわゆる『奇を以って正となす』というものです」
 太宗は言いました。
「霍去病(漢王朝の武帝に仕えた名将)は、べつに意識せずとも、『孫子』や『呉子』の兵法にかなった、うまい戦い方がおのずとできたというが、こういうことは本当にあるのだろう。右軍が後退しだしたとき、高祖(太宗の父で、このとき中軍をひきいていた)は青ざめ、わしはみずから鉄騎隊をひきいて奮戦したわけだが、このことがかえって我が軍に有利にはたらき、そのおかげで『孫子』や『呉子』の兵法にかなった、うまい戦い方がおのずとできる結果となった。この点からすると、そのほうは本当によく兵法を理解している」
 太宗が質問しました。
「軍隊が後退することは、そのすべてが奇兵であると言えるのか?」
 李靖は答えました。
「そうではありません。そもそも軍隊が退却するにあたり、旗がごたごた乱れており、太鼓の音が全体として調和しておらず、号令がさわがしくてまとまりがない場合、これは本当に敗退しているのであり、いわゆる奇策ではありません。もし旗がきちんと整っており、太鼓の音が全体として調和しており、号令にまとまりがあり、ざわざわして乱れたようすを見せているなら、これは後退していても、敗退しているわけではなく、奇策を用いているのであり、どこかにワナがしかけてあります。兵法には『わざと逃げる敵を追ってはならない』とありますし、また『本当はできるのに、できないふりをする』とありますが、これらはすべて奇策や奇襲について言っているのです」
 太宗が言いました。
「霍邑での戦いのとき、右軍が後退しだした結果、宋老生がおびきだされることになったのは、天から与えられた幸運なのか? また、宋老生をとらえられたのは、わしらの努力のたまものなのか?」
 李靖は答えました。
「およそ戦うにあたり、もし臨機応変に正兵を奇兵に変えたり、奇兵を正兵に変えたりして、敵にこちらの動きが読めないようにするのでなければ、どうして勝てるでしょうか。ですから、用兵のうまい人は、あるときは奇兵を用い、またあるときは正兵を用いて、人としてできるかぎりの努力をつくし、幸運をあてにしません。ただ、奇兵と正兵をうまく使うことで、戦い方を無限に変化させ、人の目をくらませるので、人はこちらのすぐれた戦いぶりをまったく理解できず、『天から幸運を与えられたので勝てたのだろう』と思うわけです」
 太宗は、なるほどとうなずきました。

(3)
 太宗が質問しました。
「奇兵と正兵とは、もとから分けておいたほうがいいのか? それとも、臨機応変に使い分けたほうがいいのか?」
 李靖は答えました。
「わたくしが曹操(三国時代の魏王)の書いた『新書』を参照しますに、『こちらの軍勢が敵の二倍あるときは、半分を正兵とし、残り半分を奇兵とする。こちらの軍勢が敵の五倍あるときは、五分の三を正兵とし、残り五分のニを奇兵とする』とありますが、これはだいたいの目安を言ったにすぎません。ただ、孫子は『戦争の態勢は、奇兵と正兵にすぎない。奇兵が正兵に変わったり、正兵が奇兵に変わったりして、無限に変化し、奇兵から正兵が生じたり、正兵から奇兵が生じたりして、とめどなく循環し、だれもこれをきわめつくせない』と言っています。この言葉は、奇兵と正兵の使い分けの意味するところについて、よく説き明かせています。つまり、奇兵と正兵をもとから分けておくことはできないのです。
 もし、兵士たちが臨機応変に奇兵になったり、正兵になったりする戦い方をわかっておらず、将校たちが臨機応変に奇兵を編成したり、正兵を編成したりする命令を出すことになれていないなら、奇兵で行動する訓練と正兵で行動する訓練とを個別に行わなければなりません。訓練するときには、合図の旗や太鼓にあわせて分散したり、集合したりさせます。ですから、『分散や集合は、変化のもとである』と言われるわけですが、これはあくまでも訓練の方法にすぎません。訓練ができあがり、全員が奇兵と正兵の使い分けについてよく分かったなら、たとえばおいたてられる羊の群れのように、すべての兵士は、あらかじめ奇兵と正兵にわけられてなくとも、将軍の命令におうじてスムーズに奇兵になったり、正兵になったりできるようになります。
 孫子は『ほんらいの目的と違った行動をわざと敵の目につくように行うことで敵をだまし、こちらの実情を知られないようにする』と言っていますが、これは奇兵と正兵の使い分けが最高にうまくなったことを意味します。そこで、奇兵と正兵を、もとから分けておくのは、訓練のためであり、臨機応変に使い分けるのは、実戦において戦い方に無限の変化を出すためなのです」
 太宗は言いました。
「奇兵と正兵の使い分けは、とても奥深いものなんだなあ。曹操は、きっとこのことを知っていたのだろう。ただ、『新書』は一般的な戦い方について将軍たちに示すためのものにすぎず、奇兵と正兵について特に論じたものではないのだ」
 太宗が質問しました。
「曹操は、『孫子』の『正兵で戦い、奇兵で勝つ』という一文に注釈して、『正兵とは敵と正面からぶつかるもので、奇兵とは横から敵の不意をつくものだ』と書いているが、これについて、そのほうはどう思うか?」
 李靖は答えました。
「わたくしが曹操の注釈した『孫子』を参照しますに、『先に出て敵と合戦するものが正兵となり、あとから出るものが奇兵となる』ありますが、これは『横から敵の不意をつくこと』と同じではありません。わたくしは、大軍でまともに戦うのが正兵であり、将軍みずからが臨機応変に奇策をくりだして戦うのが奇兵であると思います。どうして攻撃の先後や横からの攻撃といったことにこだわる必要がありましょうか」
 太宗は言いました。
「わしにとって、正兵とは敵に奇兵だと思わせるものであり、奇兵とは敵に正兵だと思わせるものである。これが孫子の言う『ほんらいの目的と違った行動をわざと敵の目につくように行うことで敵をだます』ということではないだろうか。また、奇兵を正兵に変えたり、奇兵を正兵に変えたりして、戦い方に無限の変化を出せることが、孫子の言う『こちらの実情を知られないようにする』ということではないだろうか」
 李靖は、うやうやしく頭を下げて言いました。
「陛下は兵法をよく理解しておられ、陛下のお言葉には古人以上のものがございます。わたくしなどのとうてい及ぶものではございません」

(4)
 太宗が言いました。
「分散したり、集合したりして、戦い方に変化を出すことは、奇兵や正兵とどのような関係にあるのか?」
 李靖は答えました。
「用兵のうまい人は、正兵を用いないこともなければ、奇兵を用いないこともなく、敵にこちらの実情をわからなくさせます。ですから、正兵でも勝て、奇兵でも勝てるのですが、兵士たちには、その作戦があまりにも巧妙なので、勝ったということはわかっても、どうして勝てたのかはわかりません。分散したり、集中したりして、戦い方に変化を出すことに精通しているのでなければ、どうしてこのようにできるでしょうか。この分散や集合を、奇兵や正兵をくりだすのに活用できたのは、ただ孫子だけであり、呉起(兵法書『呉子』の著者)から下の兵法家のとうていおよぶところではありません」
 太宗が言いました。
「その呉起の用兵の方法とは、どんなものだ?」
 李靖は答えました。
「では、説明させていただきたいと思います。春秋戦国時代、魏を治めていた武侯が呉起に『敵と味方の両軍が向き合ったまま動かないでいるとき、敵将が有能か、無能かを知るには、どのようは方法を用いればいいのだろうか?』と質問すると、呉起は『身分が低くて勇猛な者を選んで敵に突撃させ、敵とぶつかるやいなや敗退させます。もちろん敗退したからといって罰してはいけません。このようにして敵将の対処のしかたを観察します。兵士たちの動きが整然としていて、追撃してこないなら、敵将は有能です。しかし、もし多くの兵士たちがわらわらと追撃してきて、その動きが雑然といているなら、敵将は無能です。ためらうことなく進撃してかまいません』と答えました。呉起の兵法は、ほとんどがこんな感じで、孫子の『正兵で戦い、奇兵で勝つ』といった原則とは違っています」
 太宗は言いました。
「そのほうの叔父の韓擒虎(隋王朝に仕えた名将)は、かつて『李靖は、孫子や呉子の兵法について、ともに語るにたる人物だ』と言っていたが、このときもまた奇兵と正兵について語っていたのか?」
 李靖は言いました。
「韓擒虎は、奇兵と正兵のもつ意味についてわかっておらず、奇兵は奇兵であり、正兵は正兵であるとしか考えていませんでした。奇兵が正兵となり、正兵が奇兵となって、戦い方に無限の変化をあたえることを知りませんでした」

(5)
 太宗が質問しました。
「むかしの将軍のなかには、戦争に行き、奇兵を出して敵の不意を攻めた者もいる。そういうことができたのも、奇兵と正兵を臨機応変に使い分けて戦い方に無限の変化を出すことについて、きちんとわかっていたからか?」
 李靖が答えました。
「むかしの戦いの多くは、少し策のある人が、まったく策のない人に勝ち、少しうまい人が、まったくうまくない人に勝ったにすぎません。それでどうして兵法をよく知っていたと言えるでしょうか。たとえば、むかし、東晋王朝に仕えた謝玄が符堅ひきいる前秦王朝の軍隊を破りましたが、これは謝玄がうまかったからではなく、符堅がへたくそだったからです」
 太宗は、執事に謝玄の伝記をもってこさせ、それに目をとおしてから言いました。
「符堅の対応がまずかったと、どうして言えるのか?」
 李靖が答えました。
「わたくしが符堅の伝記をみましたところ、このとき、前秦王朝の軍隊は、そのほとんどすべてが壊滅したのに、ただ慕容垂のひきいる三万の軍勢だけは、まったく無傷で残りました。符堅は、ただ千人くらいの騎馬隊をつれ、慕容垂の陣営に逃げました。慕容宝(慕容垂の長男)は、この機会に符堅を殺すことを主張しましたが、慕容垂は『符堅は誠意をもってわたしに接してくれた。どうして殺したりできようか。天はすでに符堅を見捨てたのだ。心配はあるまい』と言って、符堅を殺しませんでした。ここからかんがみますに、符堅ひきいる前秦王朝の軍隊が乱れ、従軍していた慕容垂の軍勢が無傷だったのは、慕容垂が符堅に対して二心をいだいており、『こちらが軍勢を動かさないことで、うまく符堅が自滅してくれたなら、その機に乗じて、符堅に支配されている自国を独立させよう』と考えていたからです。符堅は、慕容垂にまんまとはめられたのです。自分が他人のワナにはめられていながら、敵に勝とうとするのは、難しいこてではないでしょうか。ですから、わたくしは、符堅がへたくそだったから負けたと申したのです」
 太宗が言いました。
「孫子は『知略の多いものは、知略の少ないものに勝つ』と言っているが、そこからすると、『知略の少ないものは、知略のないものに勝つ』と言える。すべては、こんなものなのだろう」

(6) 
 太宗が質問しました。
「黄帝の兵法は、一般には『握機文』として伝わっているが、なかには『握奇文』として伝えているものもある。これはどういうわけか?」
 李靖が答えました。
「発音で言うと、『奇』と『機』は同じです。ですから、『握機文』を『握奇文』と書いた人もいたのですが、なかみは同じです。『握奇文』をみますに、『九つある戦隊のうち、天・地・風・雲の四つが正兵となり、竜・虎・鳥・蛇の四つが奇兵となり、余奇が握機となる』とあります。『余奇』とは『あまりの兵』の意味で、その余奇を将軍がじかに掌握するので握機と呼ばれるのですが、機と奇は発音が同じなので握機になったり、握奇になったりするのです。わたくしが思いますに、戦争には臨機応変の策略、つまり機謀が欠かせませんが、機謀というものは、ただ掌握していればいいというものでもありません。ですから、漢字の意味からすれば、握機とするよりも、握奇としたほうがいいでしょう。
 そもそも、正兵とは、君主の命令により動かされる兵です。戦争になったとき、君主の命令に従って将軍がひきいます。また、奇兵とは、将軍がみずから動かす兵です。戦況にあわせて、将軍の命令で臨機応変に戦います。兵法書に『ふだんから法令をきちんと行うことで、人民を教育していれば、人民は服従する』とありますが、これは君主の命令により動かされる兵のことであり、すなわち正兵です。また、同じく『戦場ではなにが起きるかわからないので、どんなふうに戦うべきか、先に決めることはできず、たとえ君主の命令であっても、実情にあっていなければ、将軍はその君主の命令を無視することがある』とありますが、これは将軍がみずから動かす兵のことであり、すなわち奇兵です。
 およそ将軍で、①正兵ばかりを重んじ、奇兵を軽んじるのは、守ることだけしか知らない将軍で、②奇兵ばかりを重んじ、正兵を軽んじるのは、攻めることだけしか知らない将軍で、③奇兵も、正兵も、ともにうまく使えるのは、国をささえてくれる優秀な臣下です。ですから、握機と握奇とは、もともと別のものではなく、兵法を学ぶ者がともに知らねばならないものなのです」

(7)
 太宗が質問しました。
「握機陣には九つの戦隊があり、外側に四つの奇兵隊と四つの正兵隊が配置され、中心部にある余奇隊は将軍みずからがじかに掌握し、そのまわりにある八つの部隊は将軍の命令に従って行動する。陣のあいだに陣があり、大きな陣が小さな陣を内包している。また、部隊のあいだに部隊があり、大きな部隊が小さな部隊を内包している。臨機応変に前軍が後軍になったり、後軍が前軍になったりでき、前進するときもあせることがなく、後退するときもあわてることがない。四つの頭、八つの尻尾があるようなもので、どこから攻められても、すぐに応戦できるかたちになっている。敵がもしまん中を攻撃すれば、その両隣の戦隊が救援する。陣の数は、五に始まり、八に終わる。これは何を意味するのか?」
 李靖が答えました。
「諸葛亮は、石を縦横にならべて八卦陣をつくりました。方陣の基本は、このようなかたちなのです。わたくしは、兵士を教練するときにはいつも、必ずまずこの八卦陣を用いました。世に伝わっている『握機文』は、この八卦陣のあらましを説いているものでしかありません」

(8)
 太宗が質問しました。
「天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇、この八つの陣は、なにを意味しているのか?」
 李靖は答えました。
「今の人は、それらについて誤解しています。古人は、『握機文』を秘密にしていました。ですから、わざわざ天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇という、どことなく意味ありげな名前をつけ、人の目をあざむこうとしたのです。それら八つの戦隊は、同じ形式のものが八つあるにすぎません。天・地というのは、大将の旗に由来しています。風・雲というのは、長い旗に由来しています。竜・虎・鳥・蛇は、各隊の編成のしかたに由来しています。今の人は、たとえば天は天をかたどった陣形で、竜は竜をかたどった陣形だというように誤解していますが、実戦では臨機応変にあらゆる陣形をとらねばならないもので、八つだけにとどめることはできません」

(9)
 太宗が質問しました。
「陣の数は、五に始まり、八に終わるとあるが、天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇の八つの陣は、それぞれ天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇をかたどったものではなく、実際は古代に用いられていた軍隊を編成する方法にすぎない。このことについて、ためしに説明してくれ」
 李靖は答えました。
「黄帝のとき、『丘井の法』をつくり、それをもとにして軍隊の制度を定めました。八つの家族が一つの井を形成し、十六の井が一つの丘を形成します。この行政区画のもととなる井について説明しますと、正方形に区切った土地を、四本の道路で井の字型に九つに等分し、中心の一つを公田とし、残りの八つを私田とします。八つの私田はそれぞれ八つの家族に与え、中心の公田は八つの家族に共同で管理させます。この公田の収穫が税となります。これを井田法と言いますが、このかたちがそのまま軍隊の編成のかたちになります。井の字型をベースに、前・後・左・右・中央の五つにそれぞれ戦隊を一つずつ配置し、四隅には戦隊を配置しません。これが『五に始まる』ということです。黄帝の時代は人口が少なかったので、五つの戦隊でしか編成しなかったのです。
 その後、中央に余りの兵を配置して、そこは将軍がじかに掌握し、まわりの八つの部分すべてに戦隊を配置するようになりました。まわりの八つの戦隊は、すべて将軍の命令に従って動きます。これが『八に終わる』ということです。黄帝より後の時代になると、人口も増え、領土も広がったので、大きな規模の軍隊が必要となったのです。
 この軍隊は、奇兵となったり、正兵となったりしながら、臨機応変に変化することで敵をうち破るわけですが、そのとき、いりみだれて戦うことになり、見た目には乱れてしまったようになっても、軍隊全体の秩序が乱れるということはありませんし、ぐちゃぐちゃになり、かたちが丸くなっても、その勢いが弱まることはありません。これがいわゆる『分散して八つの小さな陣となり、もとどおり集合させれば一つの大きな陣となる』ということです」
 太宗が言いました。
「深遠なものだなあ、黄帝の軍隊編成の制度は。後の世の人で、いくらすぐれた知略をもっている人でも、これをこえられまい。これ以後、だれがこの黄帝の方法を継承できたのか?」
 李靖は答えました。
「周王朝のはじめ、太公望がこの黄帝の方法を復元し、まず岐都(周王朝の本拠地)で井田制を実施し、戦車三百両と勇士三百人で軍隊の制度をととのえました。さらに戦法を教えるときには、進みすぎず、戦いすぎないように心がけさせることで、つねに全軍のまとまりが保たれるようにしました。そして、牧野の戦いのとき、太公望は、まず百人の精鋭部隊を突撃させて軍隊の戦意を高め、続いて主力を突撃させて戦果をあげました。こうして太公望は、周王朝、武王の四万五千人の軍隊を指揮して、殷王朝、紂王の七十万人の大軍に勝ちました。
 周王朝の軍事に関するノウハウは、この太公望のやり方にもとづいています。太公望が死んだ後、その子孫は斉国の領主となったので、太公望のやり方は斉国に受け継がれました。そして、桓公の代になって、斉国は天下の覇者となり、管仲(斉国の名臣)が任用されて宰相となり、太公望の兵法が整理され、斉軍はきちんとした軍隊になりました。これにより、天下の諸侯はみな斉国に従うようになりました。きちんとした軍隊とは、大勝もしないし、大敗もしない、ほどよい戦いのできる軍隊を言います」
 太宗が言いました。
「儒者の多くは、『管仲はただの覇者の臣下にすぎない』と言って軽んずるが、管仲の受け継いだ太公望の兵法が、彼らの理想とする井田法にはじまり、王者の制度にもとづいていることを知らない。諸葛亮は、王者の補佐役としての才能をもっていた人物として有名だが、みずから『わたしは管仲や楽毅のような人物だ』と言っていた。このことから、管仲もまた、王者の補佐役としての才能をもっていたと言える。ただ当時は周王朝の力も地に落ちており、王は管仲を任用できなかった。だから、管仲は、桓公のもとにつき、軍を動かして天下を正したのだ」
 李靖は深々と頭を下げてから言いました。
「陛下は人なみすぐれておられ、このように人を正しく評価できます。この老いぼれめは、もはや死んだとしても、むかしの賢者に対してなんら恥ずるところがありません。わたくしは、当時、管仲が斉国を治めた方法について説明させてもらいたいと思います。管仲は、斉国の国民を三つにわけて、三つの軍を編成しました。その編成の方法は、次のようでした。①五つの家を一つの『軌』としました。ですから、兵は五人が一つの『伍』となりました。②十この『軌』を一つの『里』としました。ですから、兵は五十人が一つの『小戎』となりました。③四つの『里』を一つの『連』としました。ですから、兵は二百人が一つの『卒』となりました。⑤十この『連』を一つの『郷』としました。ですから、兵は千人が一つの『旅』となりました。⑥五つの『郷』を一つの『師』としました。ですから、兵は一万人が一つの軍となりました。また、むかしの『司馬法』によると、一つの『師』が五つの『旅』にわかれ、一つの『旅』が五つの『卒』にわかれるといった内容になっていますが、いずれも太公望のやり方にもとづいています」

(10)
 太宗が質問しました。
「世の人はみな、『司馬法』は司馬穰苴(斉国の名将)の書いたものだと言っているが、これは本当か? それともウソか?」
 李靖は答えました。
「わたくしが『史記』の『穰苴伝』をみてみますに、斉国の景公のとき、田穰苴は、うまく軍隊を指揮して、斉国を侵攻していた燕晋二カ国連合軍を撃退しました。それを喜んだ景公は、田穰苴を大切に思い、司馬(軍事長官)の職に任命しました。それ以来、田穰苴は司馬穰苴と名乗るようになり、その子孫も司馬を名字にするようになりました。
 斉国の威王のとき、むかしの『司馬法』を編集しなおし、さらに司馬穰苴が学んだものを書き加え、新しい『司馬法』をつくりました。兵家の流派は権謀、形勢、陰陽、技巧の四つに分類できますが、それらはすべてこの『司馬法』がもとになっています」
 太宗が言いました。
「張良(漢王朝に仕えた名参謀)と韓信(漢王朝に仕えた名将)は、むかしの兵法を順序だて百八十二家とし、そこからさらにまちがいを取りのぞき、要所を取りあげて三十五家とした。それらは今に伝わっていないが、どんなものだったのか?」
 李靖が答えました。
「張良が学んだのは『六韜』と『三略』で、韓信が学んだのは『司馬法』と『孫子』です。しかしながら、その根本のところは、三門四種をこえたものではありません」
 太宗は言いました。
「三門とは、なにか?」
 李靖が言いました。
「①太公望の『謀』が八十一篇あり、これは陰謀について述べてありますが、言葉によってはその内容をきわめることはできません。②太公望の『言』が七十一篇あり、兵法によってはその本質をきわめることはできません。③太公望の『兵』が八十五篇あり、財力によってはその技術をきわめることはできません。この『謀』『言』『兵』が三門です」
 太宗は言いました。
「四種とは、なにか?」
 李靖が言いました。
「任宏(漢王朝に仕えた軍人)は兵家の流派を①権謀、②形勢、③陰陽、④技巧の四つに分類していますが、これが四種です」

(11)
 太宗は言いました。
「『司馬法』は最初のほうで、春の狩りと冬の狩りについてとりあげているが、これはなにを言っているのか?」
 李靖が答えました。
「時を選んで狩りをし、よい獲物を祖先にささげるわけですが、これはそのことを重んじていることを意味します。周王朝の制度では、狩りを大事な国家行事に分類していました。成王は、岐山の南側で狩りを行いました。康王は、狩りのついでに豊邑の宮殿で諸侯を謁見しました。穆王は、塗山で狩りをし、そこに諸侯を集合させました。これらは天子の主宰したものです。
 周王朝が衰えると、まず斉国の桓公が諸侯を召陵に集め、次に晋国の文公が諸侯を踏土に集めました。これらは覇者が天子の代理として行いました。
 こういった集まりの本当の目的は、九伐の法(『司馬法』第一編・7参照)を用い、それによって命令に従わない諸侯をおどして従わせることにありました。諸侯を集合させ、各地で狩りをし、軍隊を訓練したのは、平和なときにはみだりに兵を動かすべきでないことを示しているであり、必ず農閑期にこのような狩りをおこなったのは、武備をおこたらないようにするためです。『司馬法』が最初のほうで、春の狩りと冬の狩りをとりあげているのには、深い意味があるのです。

(12)
 太宗が言いました。
「春秋時代の楚国の『三十輌の戦車で戦う方法』に、『役人や軍人は、みな命令に従って動き、みだりに動かない。軍隊の準備は、厳しく命令せずとも万全であり、ぬかりがない』とある。これもまた周王朝の制度にもとづいているのか?」
 李靖が答えました。
「『春秋左氏伝』をみてみますに、『楚国の軍隊は、一隊が三十輛の戦車で構成されている。戦車一輛につき、一卒一両の兵士が従い、戦車の右側にいて、戦車の間で戦う』とありますが、これはすべて周王朝の制度にもとづいています。
 わたくしが思いますに、むかしは百人が一卒となり、五十人が一両となりました。これが楚国の戦車隊の編成法であり、戦車一輌ごとに百五十の兵士が従いました。しかし、周王朝の制度にくらべると、やや兵士の人数が多くなっています。周王朝では、戦車一輌ごとに、歩兵が七十二人、重装歩兵が三人となっていました。そして、二十四の歩兵と一人の重装歩兵、あわせて二十五人が一甲となり、三甲で七十五人となるわけですが、その七十五人が一輌の戦車に従いました。楚国は山や沢が多くて平野の少ない土地で、戦車が少なくて歩兵が多く、百五十人を三隊に分けたのですが、この分け方は周王朝の制度と同じです」

(13)
 太宗が質問しました。
「春秋時代、荀呉(晋国の貴族)は、大原で狄族(中国北方の民族)を討伐した。そのとき、そこは戦車に不利な山岳地帯であり、狄族は山岳地帯での戦いに有利な歩兵隊が中心だった。そこで荀呉は、部下の進言に従って、戦車で戦うことをやめ、歩兵で戦い、狄族を大いに破った。これは正兵になるのか? それとも奇兵になるのか?」
 李靖が答えた。
「荀呉は、戦車で戦うときの戦法を用いたにすぎません。戦車で戦うことをやめたといっても、戦法を変えたわけではありません。戦車一輌につき、それにつき従う七十五人の歩兵部隊を左角、右角、前拒の三隊に分けるのが、戦車を中心にすえた部隊の編成方法ですが、この原則は、戦車が千輌になっても、一万輌になっても変わりません。
 わたくしが曹操の書いた『新書』を参照してみますに、『戦車一輌ごとに従うのは、左角、右角、前拒の三隊を構成する兵士が七十五人、補給車が一輌、炊事係が十人、補修係が五人、馬の飼育係が五人、補給係が五人である。人員の総数は、百人である。十万人規模の軍隊の場合、戦車は千輌となり、補給車も千輌となる』とあります。これはおおむね荀呉の用いた方法にもとづいています。
 さらに後漢王朝時代末期から南北朝時代初期にかけての軍隊の制度をみてみますに、①戦車五輌で一隊をつくり、僕射が一人でこれをひきい、②戦車十輌で一師をつくり、率長が一人でこれをひきい、③戦車千輌ほどの規模になると、将軍と副将に指揮させます。これが三千輌、一万輌と、どんどん増えていっても、この原則に従います。
 わたくしが今の制度をこれにあてはめると、跳盪隊(突撃をかける前軍)は騎兵によって編成し、戦峰隊(主力をになう中軍)は同じ数の歩兵と騎兵によって編成し、駐隊(殿軍となる後軍)は戦車と歩兵によって編成します。
 わたくしが西に突厥を討伐したとき、けわしい土地を数千里も進軍したのですが、この制度を変えたりしませんでした。思うに、むかしの制度にある『きちんとした軍隊』は、本当に重んじるべき軍隊のあり方なのです」

(14)
 太宗は、霊州(中国北部辺境地域)に行幸したのですが、それから帰ってくると、李靖を呼び出し、席をすすめてから質問しました。
「わしは、道宗(太宗の孫)と阿史那社尓(唐王朝に仕えたトルコ族出身の将軍)らに命じ、薛族と延陀族を討伐させた。かくして鉄勒の諸部族は中国人の役人に統治してほしいと願うようになり、わしはその願いに応じた。いっぽう薛族と延陀族は西に逃げたので、後患となることを心配して、さらに李世勣(唐王朝に仕えた名将で、本名は徐世勣)を討伐に向かわせた。今や北部の荒漠地帯は完全に平定され、そしていろんな異民族と中国人とがそこに雑居するようになったが、今、どんな方法を用いれば、異民族と中国人とが末永く平和に暮らせるようにできるだろうか?」
 李靖が答えました。
「陛下は、突厥の部落から回(ウイグル族)の部落に至るまでの六十八ヶ所に駅舎を設置することを命じられ、そうしてスパイが往来しやすくして、情報がすぐに伝わるようにしました。これは得策です。しかし、わたくしは、中国人の将兵には中国人の将兵にあった訓練をほどこし、異民族の将兵には異民族の将兵にあった訓練をほどこすべきで、それぞれの民族が得意とする戦法はそれぞれ違っていますが、そんな民族それぞれの長所をいかすためにも、両者を混同すべきでないと思います。そして、敵の襲撃を受けたなら、ひそかに将軍に命じて、中国人部隊と異民族部隊の間で、それぞれ旗と服を変えさせ、奇策をくりだして反撃するのです」
 太宗は言いました。
「どういうわけだ?」
 李靖が答えました。
「いわゆる『いろんな手段を使って敵をまちがわせる作戦』です。異民族部隊を中国人部隊のように見せかけ、中国人部隊を異民族部隊のように見せかけて、敵に見分けがつかないようにすれば、敵はこちらの作戦をよめません。民族ごとに戦法が違うのですから、敵が民族を誤認すれば、対戦方法をまちがい、それだけ敵は不利になります。用兵のうまい人は、まず敵にこちらの実情がばれない態勢をととのえます。そうすれば、敵は必ずまちがいを起こします」
 太宗は言いました。
「そのほうの言葉は、まったくわしの考えと同じだ。そのほうは辺境地帯の将軍たちに、このことをひそかに教育してくれ。この中国人部隊と異民族部隊とが旗と服を変える作戦は、奇兵と正兵をうまく使いこなす戦い方の一種だ」
 李靖は、深々と頭を下げてから言いました。
「陛下の聡明さは、とてもすぐれておられ、ちょっと聞かれただけで多くを理解なされます。わたくしは、陛下に比べましたら、まったくの理解不足です」

(15)
 太宗は言いました。
「諸葛亮は、いつも『軍隊がきちんとしていれば、いくら将軍が無能でも敗れない。軍隊がきちんとしていなければ、いくら将軍が有能でも勝てない』と言っていた。しかし、この言葉は、必ずしも十分なものではないのではないだろうか」
 李靖が答えました。
「これは、諸葛亮が感じるところがあって言ったにすぎません。『孫子』をみてみますに、『教練のやり方はでたらめで、役人や軍人の仕事は一定していないし、部隊の配置はむちゃくちゃ、これを乱れた軍隊と言う。むかしから乱れた軍隊は勝ちを失っており、こういった例はたくさんある』とあります。
 そもそも『教練のやり方はでたらめ』というのは、訓練するときに、古人のすぐれた兵法にならわないことを言います。『役人や軍人の仕事は一定していない』というのは、将軍や官僚の人事異動がひんぱんで、一つの仕事にうちこめないことを言います。『乱れた軍隊は勝ちを失う』というのは、軍隊が自滅することで、敵と戦って負けることではありません。それで諸葛亮は、『軍隊がきちんとしていれば、いくら将軍が無能でも敗れない。軍隊がきちんとしていなければ、いくら将軍が有能でも勝てない』と言ったのです。この言葉には、疑う余地がありません」
 太宗が言いました。
「軍事訓練というのは、まったくないがしろにできないものだな」
 李靖が答えました。
「教練のやり方がきちんとしていれば、兵士たちはとてもよく役立つようになります。しかし、教練のやり方がまずければ、どんなにしかりつけたとしても、まったく役に立ちません。わたくしが、むかしのすぐれた制度を念入りに研究し、それをまとめて図解したのは、兵士たちを教練し、きちんとした軍隊をつくろうと考えたからです」
 太宗は言いました。
「では、そのほうは、わしのために、むかしながらのすぐれた戦闘態勢のとり方をえらんで、それをことごとく図解して提出してくれ」

(16)
 太宗は質問しました。
「異民族部隊は、たいてい騎馬を使って敵陣に勢いよく攻めかかり、近づいて攻撃する。これも奇兵の一種か? また、中国人部隊は、たいてい強力な石弓を用いて敵をはさみうちにし、遠くから攻撃する。これも正兵の一種か?」
 李靖が答えました。
「『孫子』をみてみますに、『用兵のうまい人は、軍隊全体の勢いを頼りにして戦い、兵士個人の才能をあてにしない。ゆえに、兵士をえらんで勢いに乗せることができる』とあります。そこに言う『兵士をえらぶ』とは、ここでは、たとえば異民族部隊と中国人部隊に、それぞれの長所に応じた戦い方をさせることです。異民族部隊は、騎馬による直接攻撃を得意としています。騎馬は、電撃戦にむいています。中国人部隊は、石弓による間接攻撃を得意としています。石弓は、持久戦にむいています。このように、それぞれが得意とする戦い方をさせれば、おのずと勢いがつきます。
 しかし、これは奇兵と正兵をうまく使い分けることとは関係ありません。わたくしが前に述べました『異民族部隊と中国人部隊に旗と服を交換させる作戦』は、奇兵と正兵をうまく使いわける方法です。しかし、今回の場合、騎馬隊も正兵として使うことができ、必ずしも奇兵としてしか使えないというわけではありません。また、石弓隊も奇兵として使うことができ、必ずしも正兵としてしか使えないというわけではありません。どうして一定のかたちに固定できるでしょうか」
 太宗が言いました。
「その方法について、さらにくわしく説明してくれ」
 李靖が答えました。
「擬装して敵の目をあざむき、うまく敵を誘導するのが、その方法です。たとえば、異民族部隊に中国人部隊の服を着させ、中国人部隊の旗をあげさせたなら、敵はこちらを中国人部隊だと誤認し、対応をあやまり、それだけ不利になります」 
 太宗が言いました。
「よくわかった。『孫子』に『敵の目をあざむく最高のものは、こちらの実情を見えなくすることである』とあり、さらに『敵の目をあざむいて自軍を勝利に導くわけだが、兵士たちにはどうして勝てたのかが分からない』とあるが、これはこのことを言っているのだろう」
 李靖は深々と頭を下げてから言いました。
「陛下は、よく考察しておられ、ほとんど理解しておられます」

(17)
 太宗が言いました。
「最近、契丹族と奚族がまとめて帰順してきたので、彼らの住む松漠と饒楽の二つの地区にそれぞれ都督(軍政長官)をおいて、それらを安北地方の都護府(異民族の住む地域を統治する役所)に管轄させることにした。わしは、その都護府の長官に薛萬徹を任命しようかと思っているのだが、どうだろうか?」
 李靖が答えました。
「薛萬徹は、阿史那社尓、執失思力、契芯何力の三人にはかないません。その三人は、異民族出身の臣下のなかで、もっとも軍事に精通している者たちです。わたくしはかつて、松漠と饒楽の地形、道路のつながり方、原住民の動向などについてや、遠くは西域にある数十の部落のことに至るまで、彼ら三人と語りあったことがあったのですが、彼らの話すことは、そのすべてが信用できるものでした。また、彼らに戦法を教えたことがあったのですが、そのとき彼らはすんなりと理解できました。わたくしは、陛下にはなんら疑うことなく彼らを信任していただきたく存じます。いっぽう薛萬徹は、勇気はあるのですが、無謀ですので、一人で都護府の長官の仕事をこなすのは難しいでしょう」
 太宗は笑って言いました。
「異民族もまた、そのほうの手のうちにあるようだな。古人は『異民族を用いて異民族を攻めるのが、中国のとるべき伝統的な異民族対策だ』と言っているが、そのほうはこの言葉どおりにやれている」




・・・・・・・・・
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抜粋おわり

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