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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
https://k10p.net/?p=4038 より

上記文抜粋
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よく天下の危機を助ける者は、天下を安定に導く者です。よく天下の憂いを除く者は、天下の楽しみを享受する者です。よく天下の災いを救う者は、天下の幸福を得る者です。

恩沢が民にまで広まれば、自ずと賢人もやって来ます。恩沢が虫にまで広まれば、自ずと聖人もやって来ます。賢人が来た国は強力です。聖人が来た国は万事まとまります。賢人を迎えるのには徳が必要で、聖人を迎えるには道に則した振る舞いが必要です。賢人が去った国は力が衰微し、聖人が去った国は民が乖離し乱れます。

力の衰微は危機の前触れで、民の乖離は滅亡の予兆です。


賢人の政治は、人を治めるのに自らをもって行い、聖人の政治は、人を治めるのに心で行うものです。

自ら行えば根っこから計画することができ、心で行えば終始安定します。自ら行うのに礼をもって遇し、心で行うのに楽しみをもって遇することです。

いわゆる楽というものは音楽のことではありません。家に集う楽しみ、親族の集う楽しみ、仕事の楽しみ、土地の楽しみ、規律に従う楽しみ、道徳に沿う楽しみのことを言うのです。このようなことを弁えた君主は、そこであらためて音楽を作り、人の和を保つのです。

これはつまり、徳ある君主は音楽をもって人を楽しませることができるが、徳のない君主は音楽をもって自身を楽しませるということです。人を楽しませる者は地位を長く保ち、自身が楽しむものは地位を保てずに滅びます。


近いものを見ずに遠くのものを考える者は、疲れるだけで成功できません。遠くのものを見ずに近くのものを考える者は、かえって力が抜けて成功するものです。ゆったりした行政には忠臣が多く、慌ただしい行政では怨む民が多くなります。

であれば、土地を拡大することに注力すれば政治は荒れ、徳を広めることに注力すれば国は強くなります。自分の土地を守れば安定し、他人の土地をむさぼれば問題が起きます。

破滅的な政治をすれば、末代まで災いを被ります。軽々しく変化に過ぎれば、表面では成功したように見えても必ず失敗します。自分のことは棚に上げて、人のことを教育しようとしても出来ません。己を磨いて人を教化すれば順調に行きます。そうでなければ乱れを招き、そうであるのが治の要です。

道德仁義礼の五つの要素は、本質的には一緒のものです。道は自然の理で、徳は体得するもので、仁は人が親しむもので、義は人が良しとするもので、礼は人がおこなうものです。このうちどれが欠けても完全ではありません。

いうなれば、朝起きて夜寝るのは礼の取り決めです。賊を討って報復するのは義の決断です。思いやりの心は仁の発端です。自分が得たものを人に与えるのは徳の行いです。人に対して公平に接し、居場所を失わないのは道の教化です。


君主が出したものを臣下にくだすことを、命と言います。竹符や帛書に書を施すことを、令と言います。それを奉じて実行に移すことを政と言います。命が失われたなら令が届かず、令が届かなければ政は行なわれません。政が行われなければ、無道となり、そうなれば邪な姦臣が力を強め、邪な姦臣が強ければ、すなわち主君を食い破ります。


賢人を迎える道は遠く、愚者と遭遇する道は近いです。これをわきまえた明智ある君主は、妥協せずに労を惜しまず賢人を探すのです。だからこそ良く成功をおさめるのです。

賢人を高貴なものとすれば、臣下は力を尽くすようになります。注意すべきは、誤ってひとつの善を退けた途端に、他の善のやる気を削ぐことになることです。また、ひとつの悪を賞した途端に、大勢の悪が集まってきます。

善人は守り、悪人を退ければ、国が安定して沢山の善人があつまります。民衆が疑うようになると国は安定せず、民衆が惑うようになると統治は出来ません。疑いの状態を安定させ、惑いの状態から回復させれば、国は安定します。


ちょっとでも誤った命令を出せば、沢山の命令が無駄になり、ちょっとでも悪事を見逃せば、それで沢山の悪事が湧いてきます。ですから善なる従順な民には施しを与え、悪凶なる民に刑罰を加えれば、命令も実行されて怨むものがなくなります。

怨まれているものが怨むものを治める、これを天道に背くと言います。仇なされている者が仇なす者を治めれば、その混乱は救いようがありません。民を統治するものが公平で、公平に行うのに清廉であれば、民は安定を得ることができ、そして天下安寧の世の中となるのです。

上に背くものが高位につき、貪欲なものが富めば、聖人が君主となっても統治することは出来ません。上に背くものを罰し、貪欲なものを拘束すれば、それで教化は行われて諸悪は消滅します。

清廉潔白の者は、地位やお金では心を掴めません。節度と義の者は、威圧と刑罰で脅すことは出来ません。ですから明智ある君主が賢者を求めるときは、必ずその人物の人柄を見て行動するのです。

清廉潔白な人材を求めるときには、まず自身が礼を修め、節義の人材を求めるときには、まず自身が道に則して行動するのです。そのように自身が修めてから人材を求めるようにすれば、君主としての名を保つことができるのです。

聖人君子というものは、ものごとの盛衰の本質を理解し、成功と失敗の発端を心得、治乱の機微を研究し、行動の節度を知っているものです。だからこそ困窮していても亡国には仕えませんし、貧窮していても乱れた国の世話にはならないのです。世を忍んで隠遁していても、時が来たと思えばたちまち招かれ、そして高位についてしまうものです。

君主が徳を修めれば、すなわち類稀なる卓越した功績をたてることができます。そうなれば王道は順調に運び、名が後世にまで響くのです。


聖王の用兵は、好んで行うものではありません。世の暴君や乱臣を討伐するものです。

義をもって不義を誅伐しようとするのは、大河の水を流し込んで小さな火を消し、深海に落ちることを望む者を突き落とすような、そんな簡単なことです。必ず勝ちます。それでも余裕があって敢えて行わないのは、人を傷つけることを重くみるからです。

そもそも戦とは災いのもとです。天の道としても忌む所です。ですから戦はやむを得ない場合にのみ行うもの、これが天道です。

道と人の関係は、水と魚に例えることが出来ます。水があるから魚は生き、水がなければ魚は死にます。だから君子は常に自分を戒め、そのようにして道を踏み外さないようにするのです。

豪傑が要職につけば、豪傑の力が強まり国威は弱まります。生殺与奪の権力を豪傑が握れば、国威は無くなります。豪傑の力を低く抑えれば、國は長らえることが出来ます。生殺与奪の権力を君主が握るなら、国は安泰です。

国中の民の暮らしが行き詰まれば、国は空っぽになり、国民の暮らしが豊かになれば、国も安泰です。

賢臣が要職にあれば、邪臣は外へ追いやられます。邪臣が要職にあれば、賢臣は退けられます。政治に秩序が失われれば、その災いと乱れは世に広まります。

大臣が主君を疑えば、多くの姦臣が集まります。臣下の力が君主の力に匹敵するようになると、上下の関係に暗雲が立ち込めます。臣下の力が君主の力を凌ぐようになると、上下の秩序が失われます。

賢者を害する者は、その災いは三代に及びます。賢者の動きを封じる者は、その害が自身に及びます。賢者に嫉妬する者は、名声が損なわれます。賢者を推す者は、その福が孫子(まごこ)に及びます。ですから君子は賢者を推挙するのに性急に行い、そして名声を高めるのです。

一つの利のために百の害を呼び込めば、民は去ります。一つの利のために万の害を呼び込めば、国の滅亡が囁かれます。一つの害を退けて百の利を呼び込めば、人はその大徳を慕います。一つの害を退けて万の利を呼び込めば、政治は乱れようもありません。



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抜粋終わり



お読みくださりありがとうございます。
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