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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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桜がこのあたりでは終わったので、背景をなににしようかと。

ガーベラもよかったけど、字が小さいので、今はクローバーに。

これで大丈夫かな。
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旅の密教僧 謹賀新年

>今年は年始早々に 「良い兆し」 を感じました✨

>こうった 「兆し」 は、何気無い日常の事柄に潜んでいます。

>良いお詣りでした


あえて、これの「良い兆し」を期待してみたい。

激動の年かもしれないが、良い方の「激動」になると思う。半分希望だが。


お読みくださりありがとうございます。


アバンギャルド精神世界 より

上記文抜粋
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すべての生きものを救いましょう

四弘誓願

仏教で言わされる四つの誓い。これを白隠は、とても強調した。ただムームーと坐っているだけでは、見性しただけでは、人は悪にも善にも転ぶ。

イエスですら荒野の40日修行で、ファイナル・ステージ直前に悪魔の誘惑を受け、釈迦もマーラ(悪魔)の誘惑を何回も受けた。不退転となる直前、九分九厘の時は、フィフティーフィフティなので、その時にこうしたものが役に立つことを知っていたのだろう。

その時は神にもオープンであり、悪魔にもオープンだからこそ、このようなものがこのタイミングで効いてくるのだろう。

だが、のんきな生道人、生半可修行者は、またこんな大仰な文句をまた唱えるのかと思うかもしれない。

1. すべての生きものを救いましょうという誓い (衆生無辺誓願度)

2. すべての迷いを断ちましょうという誓い (煩悩無尽誓願断)

3. すべての佛の教えを学びましょうという誓い (法門無量誓願学)

4. このうえないニルヴァーナに至りましょうという誓い(仏道無上誓願成) 。


・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


おなじく より

上記文抜粋
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意味がないもの、意味があるものの違いを超える-1

愛と自由

愛の世界では、純真さが求められる。それは高さである。

それは、只管打坐の道行きである。

ところが修道院や禅堂で悟りすました奴だって、腐乱死体を見たり、ドラッグでへろへろにラリっている人を見たり、男同士で抱き合っているのを見たり、ごろつきにからまれたりしたら、おろおろするだけだ。これが、愛の世界であり、高さの性質。

そういうどろどろのどうしようもない世界でも、どんどん闊歩できて、平気で奴らをノックアウトできるのが自由、出入自在。

これが、クンダリーニ・ヨーガの道行き。彼らには高さに加えて深さがある。釈迦も呂洞賓もパドマサンバヴァも出口王仁三郎も、高さに加えて深さがある。何でも来いだ。

禅は最後に黙照枯坐の只管打坐で抜けるのだが、それでは高さはゲットできるのだが、深さを得るために聖胎長養をすると見ることができる。

これは、二種の悟りの特徴であってロジカルではある。

そんな知的理解すらも、無意味にするようなあらゆる不安と馬鹿バカしさに生きるこの日常。

ここに全く無意味なものが登場してくる。


寒山拾得の笑い

秘密集会タントラの糞尿礼賛

ダンテス・ダイジの石ころ

雪を運んできて井戸を埋める

シーシュポスが大岩を山頂まで上げるがその岩は山頂から下に転がり落ちる

魏伯陽が丹薬製造に失敗して、その薬を飲むと死ぬだけだとわかっているが、3人の弟子に飲むかと決断を求め一人は飲んだ。

ナロパは師ティロパの指示で崖から飛び降りて死んだ。

インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとしたが、ウッタンカ仙人は、怒って飲まなかった。


あなたは、グルの指示どおり、無意味なことができるのか。これは単純に師匠への絶対服従がテーマではない。


聖者の話、まともな求道録の中には、必ず無意味と思える話が登場してくる。ダンテス・ダイジは人間の最後のテストとして、
「意味がないもの、意味があるものの違いを超えること」を挙げている。それを通過しないと世界はひっくりかえらないのだろう。

愛も自由もその先にしかないのかもね。


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・・・・・・
抜粋終わり


愛と自由は、経済的合理性や、政治的正しさとは関係ない。

でもこれがなければ人間は生きれない。

さらに難しいのは、倫理も関係ない事すらある。

でも大事なのである命であるから・・・

そういう意味で、この20年ほどの新自由主義経済は、日本人の精神を、前の戦争に続いて叩き潰している。

おなじく より


上記文抜粋
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意味がないもの、意味があるものの違いを超える-2


社会性と人間の本質のズレ

現代人のズレが極点に至った原因は、
社会性の頂点にいる人でもみじめで情けない自分に変わりはないという状態を放置していること。

アメリカ大統領でも
日本の総理大臣でも
資産何兆円のスーパーリッチでも
世界を股にかけるスーパーモデルでも
フォロアー何十万を抱えるアイドルでも
スポーツ界のスーパーヒーローでも
ノーベル賞クラスの大科学者でも
谷崎、三島をしのぐ文豪でも
現代の名工でも
音楽や美術の大アーティストでも
一部上場企業のトップでも
囲碁将棋のトッププロでも
役人のトップでも

プライベートに帰れば、不安におののき、みじめで情けない自分に変わりはない。

その素敵なステータスは何年もつのだろう。賞賛が侮蔑批判に変わる懸念はないのだろうか。

これは、人間の社会性の充足、社会における自己実現、社会における成功というものが人間の本質とは何の関係もないことを示している。

これぞ現代が、人間の自然、ナチュラリティから極端にずれてしまったということである。

人は何のために生きるのだろう。この問いかけに対し、まともな回答を用意しようとしたのは社会における自己実現の方面だけであって、人間の本性、本当の自分というものに対する解決法についてはなおざりにされてきた。

それは、覚醒、悟りなのだが、愛、慈悲方向に向かうことでもある。ところが、それは社会性を論じたり、考慮したりする水平面上にはない。

一発逆転しないと、本物のそれには出会えない。

一発逆転するには、最後にそびえたつ巨大な壁を乗り越えなくてはならない。

意味がないもの、意味があるものの違いを超えるということ。

悟れるか悟れないかわからないけれども、冥想しないと悟れないみたいだ。あるいは、覚醒する保障もなく、その冥想法で行けるのかどうかもわからないし、悟った後生き残るかどうかもわからないけれども坐る。

こんな考え方は、メリデメ無視の非合理な考え方だが、そうした合理性、意味で構築された三段論法の世界を超えた直感が働かないと、自分を棄てて冥想に打ち込むなどという方向には動かない。

タロットカードの吊るされた男。誰がこんな格好をするものかと思う。禅問答でまじめに応答している相手に対して靴を脱いで頭に靴を載せる。
狂人ではないまともな常識人がこんな所作にまともに取り組むしかない、猛烈に成熟した時代がやってきてしまったのだ。

昭和30年代くらいまでは、悟りや覚醒というのは死期が視界に入ってきた老人のための専売特許であった。出口王仁三郎は、昭和20年代に亡くなったが、天国の話こそすれ、自分の覚醒体験そのものについてはほとんど布教、説明していない。当時は、覚醒、悟りというものはそれほど切羽詰まってはいなかったのだ。

いま、まさに万人にとって、悟り、覚醒が直面する最大のテーマになったが、多くの人は取り組むべきすべもモチベーションも持ち合わせない。

悟り、覚醒が、人間の苦悩の根本的救済であるかどうかも論理的に説明できないし、冥想がそれを解決してくれるメソッドであるかすらも証明できない。

だから、ズバリ無意味なことをできるかどうかが、この21世紀の知性が発達した人類に突き付けられた関門になっているのだ。

この非合理性を突破しようとする者は、自分を救うだけでなく救世主でもある。

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抜粋終わり


実は無意味かどうかは、本当はわからん。

ある事象についてのある観点からの無意味ってのはある。

でもそれが生きている現在リアルの無意味ってのは、極論すると無い。て思える。

意味など、その「受益者・当事者・関係者」にしか関係ない。でもその「枠」が元来無いとすれば、意味のあるなしなど、無いのかもしれない。

おなじく  より

上記文抜粋
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意味がないもの、意味があるものの違いを超える-3

◎禅と乾いた道

白隠は、大悟数回小悟数知れずなどと数えている。いつ意味がないもの、意味があるものの違いを区別しなくなったのか。その都度大汗三斗も噴出して、嬉しさ、すばらしさの極みを感じたのだろうか。

大悟は、人間にとって一回で十分だが、何回もやるには、相当な準備がいる。白隠は、本人はその当座は大悟だと思っていたが、後に大悟などではなかったというのがばれるシーンもいくつかある。

面白いことに禅家の悟りシーンでは、あの突き抜ける歓喜や力の自覚のシーンは多いが、悲しみの極み、ありがたさ、愛の自覚のシーンはほとんどない印象がある。

これが、乾いた道、近道であろう禅の特徴なのではないか。

禅の大悟は、一つのノンデュアリティではあるが、その悟境を確かめに師家のところに参上して、あまりのありがたさ、悲しみで、涙にくれるという場面はまずない。

まさしく乾いた道だと思う。
どうしてそうなのかは知らない。

意味がないもの、意味があるものの区別をしない人というのは、重篤な統合失調症の患者などにもあるが、意味が崩壊した世界で、正気を保っていられるというのも、覚者の一側面なのだろう。

孤絶した透明な孤独感も統合失調症患者にも、覚者にもある。そうした心理現象の側面だけ追っても大悟には届かないだろう。

「すべてが一つです」などと主張する人たちは、そうした意味が崩壊した世界を通過したのだろうか。人間の無意識にはわけのわからないものが無数に詰まっている。そういうものに直面して動揺しない者だけが彼岸に至るのだろう。

意味の崩壊した世界というのは考えるだに恐ろしいものだが、ノンデュアリティを説く人たちは、その恐怖の扱いをどうしているのだろうか。


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抜粋終わり





まあ私もよくわからんが読んで参考になれば、幸いです。


お読みくださりありがとうございます。

ちょっと衝撃。

原作が面白くて笑いまくったこれ。


まだ日本列島も捨てたものではない。

放射能やアベ日本カルト会議ごときに殺されてたまるか。


お読みくださりありがとうございます。
10月10日の昼。

車の中を少し片付けていたら、小さな恵比寿さんを見つけた。

七福神のキーホルダーから落ちたモノであるのは確かだが、偶然。


少しラッキーとは思うのだが、ただ単純ではなさそう・・。


神々がうごいとーと 新もえ~岳再噴火 ※追記しました


お読みくださりありがとうございます。

きになったので。
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